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選挙と地域とコミュニティ

ゆうです。
衆議院選挙が終わりましたね。
あたしが住んでる選挙区では、裏金議員とか呼ばれてる人が、極左というかコミュニストらしい対立候補を僅差でかわして当選したようですが、そんなことは忘れて。

この選挙で感じた素朴な疑問。
国政選挙なのに地域性が強すぎません?

いやその、あたしは社会学の院生でありながら政治にはあまり関心がなくてさ、教授に匙投げられてるくらいだから、トンチンカンな疑問なのかもしれない。
国会議員って国レベルの立法とか政治を行う人たちだと思ってた。
それがどうも違うらしい。
だって、候補者の演説が地元の話ばかりなんだもの。
これ地方選挙だったっけ?って錯覚したわ。

たしかに、その選挙区で票を得るためには、その地域の住民に直接メリットがありそうな話をするほうが効果的でしょうね。
けど、それって市長とか知事が考えることじゃないの?
有権者も有権者で、国のことより自分らが住む地域のことを国会議員に期待してんの?
は? 政治ってそういうもんだろ。って声が聞こえてきそうだけど。

あたしたち庶民の意識は、グローバルどころか、ナショナルですらなくて、ローカルなのかい。
だから国会議員も自分の選挙区の利益を第一に優先する。そんな連中に国の舵取りを任せていいのかなー。
と、選挙のことでモヤモヤしてるとき、りなるさんの記事が目に留まった。

一見、選挙とは関係なさそうだけど、あたしのなかではつながるんです。
まず、一人の人間にはいくつもの顔がある、とりなるさんはおっしゃっています。
有権者もそうだよね。
家族の一員としての顔。労働者としての顔。地域住民としての顔。日本国民としての顔。どの顔で投票するかによって投票先は違ってくる。
例えば、親としての顔は、子育て支援や学校無償化などに関心が向く。
労働者としては雇用と賃金。地域住民としては街づくりや治安。日本国民としては国力や外交といった具合。

これらすべての要求に応えるのは無理よね。財源がいくらあっても足りないでしょうから。
だったらコミュニティ的アプローチをとるのがもっとも賢いんだよね。
理性ではなく情緒に訴える。

チームとコミュニティの違いは何でしょうか?
目的を共有するのがチーム、価値観を共有するのがコミュニティ、なーんて受け売りの得意な啓発屋あたりが言いそうだ。

「コミュニティ」の定義が変わってきていると思う。
コミュニティの「目的」とか「理念」なんて言う人が出てきた。
これはおかしいよ。ほとんど「チーム」になっちゃってる。
コミュニティをチームと同化させようとしているみたい。
仕事しかアタマにない人たちの発想でしょうか。

本来のコミュニティには目的も理念も不要なんです。価値観すらも共有していなくていい。
考え方の違う人たちがいてもいいのがコミュニティのコミュニティたる所以なのだから。
なぜそれでいいのか。目的も目標もないからだよ。
チームが設定したがる成果や評価指標なんてのもコミュニティには不要。

もともとコミュニティってのは地縁のことなんだよね。とくに日本はそう。
たまたま同じ町で生まれて近所に住んでる者同士の連帯。それ以外の共通項はない。しかしその連帯は強い。だから価値観の異なる者同士でも共存できるんです。

選挙活動もコミュニティすなわち地縁感情に訴えるのが王道だってこと。
ほら、つながったでしょ?

コミュニティはライフ(=ホーム)の論理、チームはワーク(=アウェイ)の論理で営まれる。
コミュニティにチーム的要素を採り入れる動きは、ライフへのワークの侵食にほかならない。
コミュニティってのは、ただそこにいるだけでいいと思える人たちの集まりなのだ。それが目的だの成果だの評価だのと言いだしたら息が詰まるよ。

この町に住んで 2年半。コミュニティと呼べるほどのグループはないけれど、住む家と、通う大学と、バイト先(兼遊び場)の居酒屋が自転車圏内にある。
数人の友達とお店の常連さんだけでなく、商店街のおっちゃんおばちゃん、同じ場所でときどきすれ違う馴染みの顔がいる。なんだろ。守られてる感じがするんです。
地域というコミュニティが与えてくれる安心感って悪くないかも。
そう思わせてくれた選挙でした。