情報発信の民主化は人を幸せにしたか
34年前、当時売れっ子の放送作家は言った。
「テレビとの正しい付き合い方は、今すぐテレビを消すことだ」
34年前(1990年)とは、まだインターネットが普及しておらず、メディアがテレビの独り勝ちだった時代である。
テレビを見ない人が増えている現在、当時のテレビの存在感を理解するのは難しいかもしれない。
携帯電話もパソコンもない生活を想像してほしい。四六時中スマートフォンを見ているかパソコンの前に座っている人は、15分と耐えられないだろう。
それと同じようなものだと思えば、当時の人々が四六時中テレビにかじりついていた状況もわかるのではないか。
そんな時代、「テレビを消せ」は親が子に言うお小言だったのだが、テレビ番組制作の主役たる放送作家がそれを言った。
当時の彼の真意はさておき、2024年の現在、その言葉に共感する人は多いと思う。
つまらないから。時間のムダだから。思考力が落ちるから。等々、理由はいろいろあるだろうが、テレビを見なくなった人に訊いてみたい。
ウェブはテレビより優れた情報媒体だと思いますか?
ウェブとテレビの大きな違いのひとつは、情報発信者の数と質である。
テレビで情報を発信できる人間の数は限られており、名前や肩書きなどそれなりに社会的な立場のある者がおもである。
かたやウェブは、ネットに接続できる者は誰でも情報を発信できる。発信者の属性を問わず、匿名でもいい。
ゆえに、テレビは権威主義的、ウェブは民主主義的と言える。
両者は一長一短ある。
権威主義的なテレビは、発信側によるバイアスを避けられないが、情報の質はそれなりに保たれる。
民主主義的なウェブは、少数派を含む多様な意見を発信できるが、情報の質はピンキリになる。
ウェブがテレビより優れているのは、「多様性」の部分と、ピンキリな質の「ピン」の部分だろう。
一方、「キリ」の部分(誹謗中傷やフェイクなども含む)を排除できないことや、少数派の意見をいちいち汲み取ることの是非といった問題がある。
情報発信の機会が万人に与えられることによって、人類の進化や知の深化が起こると楽観している人は減ったと思う。
ウェブがなかった時代は、情報の発信が放送局と紙媒体(新聞・書籍等)に独占されていた。おもに知識層が情報を発信していたということだ。
ウェブの登場によって、そうでない層が情報を発信するようになれば、質が低下するのは当然の帰結である。
私はべつにオールドメディアを美化しているわけではないし、ウェブ上で情報発信する人たちを十把一絡げに非知識層だと言うつもりもない。
ただ、ウェブによる情報発信の民主化は、メリットよりデメリットのほうが大きかったのではないか、と感じている。
ウェブの普及は、発信情報の質の低下だけでなく、さらに深刻な問題を生んだ。それはXやヤフコメなどで見られる「いいね」獲得競争である。
多様な人々の多様なつぶやきが読めるのは面白い。それが発信者の心からのつぶやきであるならば。
しかし、あの場で繰り広げられる情報発信は、できるだけ多くの人々の注目を集めるためのアピールであることが多い。
共感を得るための正論。
歓心を買うための媚び。
反感を煽るための極論。
絶賛を博すための美談。
それが生き甲斐になっちゃってませんか?と心配になる。
いや、それを生きる張りとするだけならまだいい。
問題は、そのような思考と行動のパターンがリアル社会で常態化してしまうことだ。
例えば、会議で出席者たちの顔色や場の空気を読んで、八方美人的な発言をしたり、勝ち馬に乗ったり。
ワイドショーのコメンテイターやYouTubeのインフルエンサーのポジショントークもそれである。
SNSで「いいね」をもらうための最適化行動をとるようになったら、自分の意見を言わなくなる。リアルの世界においても。
これは言論の劣化としか言いようがない。
繰り返すが、オールドメディアの時代に戻ろう、と言っているのではない。
情報発信の民主化は不可逆的な変化だと思っている。
最初の話に戻って・・・
テレビが独り勝ちしていた時代に、「テレビを見るな」と言ったテレビマンがいた。今はそれが良識になりつつある。
では、ウェブで誰もが情報発信できるようになった時代に言えることは何だろうか。
その答えに辿り着くには人間の本質に触れる必要があるので、もう少しお付き合いください。
人間は基本的に快楽原則に従って行動する。
テレビ独り勝ち時代の人間が四六時中テレビにかじりついていたのは、それによって強い快楽を得ることができたからである。
人間がテレビをあまり見なくなったのはなぜか?
ウェブによって、より強い快楽を得られるようになったからである。
テレビは情報を受信するだけのメディアだったが、ウェブでは誰もが情報の発信者になれた。しかもその情報発信は(潜在的であれ)全世界の人々に届く可能性があった。
不特定多数の人々に向けて情報を発信し始めた人が求めたものは何か?
それはレスポンス(反応)であった。
例えば、1999年に開設された 2ちゃんねるに書き込んでいた人たちは、書くだけで満足していたのではなく、なんらかの反応を受け取ることで快楽を得ていた。
やがて、その快楽をさらに高めるために「いいね」やビュー数などの機能が付加された。レスポンスの可視化であり数値化である。
人間、とくに現代人は数字の魅力に弱い。
「いいね」数を稼ぐことが目的化するのに時間はかからなかった。
拝金主義が史上最も高まった現代において、1円にもならない「いいね」の獲得に精を出す現象は、それによって得られる快楽がいかに強いかを物語っている。
かつて「テレビを見るな」と言われても見続けたように、「いいね」獲得競争をやめよと言ってもやめないだろう。
「いいね」で得られるよりもさらに強い快楽を与えてくれるものを見つけるしかないのだ。
それは何か。
ここで過去への回帰を提案することは敢えてしない。時代の変化はほとんどが不可逆的だからだ。
つまり、家族、共同体、仕事、性愛、信仰、自然などへの回帰を提唱するつもりはない。
もちろん、今それらによって快楽を得ている人はそれでいい。
問題は、それらから「いいね」以上の快楽を得られなくなった人である。
人と深くかかわることをやめたために、人はバラバラな個となり、個は顔の見えない多数の他者からの関心・理解・同意・共感・称賛を欲した。それが「いいね」である。
そんな実体のない他者とのかかわりさえもメンドクサイと感じるようになれば、あとは自分自身とかかわるしかない。
しかし、孤独もまた恐怖である。
閉塞した状態なわけだが、そんなときにこそ新たなテクノロジーが登場するものだ。誰ともかかわらず孤独を感じることもないソリューション。
例えば、AIと 3Dホログラムでもう一人の自分を作り出し、それが「いいね」に代わるドーパミン言語(非言語かもしれない)を与えてくれるとか。そんな時代がわりと近くまできているような気がする。
今日は 2024年の仕事納めだった。
明日からやや長めの冬休みに入る。
こんな屈折した noteを書いてしまったのは、仕事上の人間関係から解放された空虚さゆえかもしれない。