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大阪で生まれた女に今さら謝ってみる
恥ずかしながら 5回の結婚歴がある私ですが、じつは 1回目の法律婚の前に、内縁関係にある人がいました。こんなおかしな人生を歩むことになったのも、元はと言えばその人のせいかもしれません。
10代から 20代の人格形成に加担した人の影響は、一生続くものなのでしょうか。
私という人間に最も重大な影響を与えた人の記憶を掘り起こしてみました。
初めて大人の女性に出会った 18 の春
大学進学とともに京都に移り住んで間もなく、祇園の高級クラブでバイトを始めました。
イマドキの若者のために念のため解説しておくと、バブル時代前後のクラブ(クにアクセント)とは、ホステスが接客をする場所。
今で言う「クラブ」(アクセントなし)は、当時「ディスコ」と呼ばれていたものに近く、祇園や銀座や新地などの高級クラブはそれとは全く異なる。
私の仕事内容は、厨房で洗い物をしたり簡単なツマミ系料理を作ったり、お客の煙草を買いに行ったりという雑用なのですが、なぜか「チーフ」という呼称がついていました。
18歳にしてチーフて。
夜の世界には不思議な風習や業界用語があるものですね。
そのクラブの雇われママは、当時 27歳。
私は、その 9歳年上のママに惹かれていくことになります。
身分が違いすぎて最初のうちは接点がなかった。
チーフとママでは、新入社員と社長みたいなものだから。
仕事を教えてくれるのはチーママだし。
1シフトにホステスが 4人ほどの小さなお店だったので、厨房でヒマにしていると、接客しているママの話し声が聞こえてくることがあった。
ママの話術の凄まじさに度肝を抜かれた。
話が面白すぎるだろ!
ママは大阪出身だそうだ。大阪の人、面白すぎるゾと思った。
しかも、受け答えの端々に頭の良さみたいなものを感じる。
やがて、ママは高学歴で薬剤師の資格を持っていることを知った。
なんでこんな仕事してるんだろうって思った。
私も最初は水商売に偏見をもっていたんだろう。
しかし、そのお店で数ヵ月も働いた頃には確信していた。
水商売こそ、最高の容姿と才覚を兼ね備えた女性の職業の頂点であると。
ママは、18歳の少年が初めてナマで見る大人の女性だったと思います。
ママに対する感情は、畏れから憧れへと変わっていった。
それでも、恋愛の対象としては見ていなかった。
やはり身分と歳が違いすぎるからだろうか。
18歳のしがない学生と、27歳の女性最高峰職業のトップ。
恋愛感情がないうちは、安心して憧れていればよかったのです。
片想いすること 3年
ある夜、お店がヒマで、閉店時間の 12時に客がいなかったのでホステスたちもチーママも帰って、店内でママとふたりきりになったことがありました。
ママ「チーフ、飲みに行こか」
その言葉が脳に届くのに 5, 6秒かかったと思う。
落ち着くんだ、俺。
ビビってんじゃねえ。
はしゃぐな。
にやけるな。
私「いいですけど」👈さりげなさを出す全力の芝居
京都の夜は長い。
東京と違って終電とか関係ありませんからね。
狭い街なので、タクシーが普通に一般市民の足替わりです。
いったいどんなオシャレにお店に行くのだろう・・・?
心臓をドクンドクンさせながら、ママの後について、京都の夜を木屋町方面に歩いて行く。
ゑ、木屋町? 祇園じゃなくて?
入ったお店は、めちゃめちゃ狭くて時代錯誤で雑然としたところでした。
6席のカウンターだけの、ヒッピーっぽいマスターが一人でやってる店。
これをどう評価したらいいんだろう。
さすがママ! 意外性あるぅー!なのか?
相手が私だからこんな店が手頃ってこと?
18歳の少年にはわからない・・・
でも、そのお店で飲んでいるうちに、何かがわかった気がしてきた。
ママは、ただ単にこのお店が好きなんだな。
なんだかすごく楽しそうだから。
ママ「おもろいやろ、ここのマスター」
いえ、ママの話のほうが面白いと思います、って正直思ったけれど、きっと接客のプロには、素人にはわからないツボとかあるんだろうなあ。
その夜私の目に焼き付いたのは、ママのお店では絶対に見せたことのない、リラックスしたママの素顔でした。
18歳の心臓がざわざわする。
この人、普通の人間だったんだ、てゆうか・・・
かわいい人だな、と感じてしまった。
私が好きになってもいいのかもしれない、と思ってしまったんですね。
とんでもない思い上がりなんですけどね。
でも、その夜を境に何かが変わったわけでもなく。
あの夜あんな顔見せといて、次の日お店ではかっこいいママの顔しか見せない・・・ずりぃーなママってナマイキにも思ってた。
このテのバイトは長く続かないものですが、私は辞めませんでした。
他のチーフが辞めていって、気づいたらチーフは私一人。
私はレギュラー(毎日出勤)になっていました。
辞めなかったのは、ママのお店だからです。
お店で凄まじい接客と采配を見せる祇園のママ。
閉店後、一人の女に戻って素顔で飲んでるママ。
そのギャップにノックアウトされ、絶対にかなわない片想いに、それでもいいと思い続けて 3年たっちゃった。
私は 21歳、ママは 30歳になっていました。
18歳 ~ 21歳というハジけてもおかしくない時期、同年代の女に見向きもしなかった。大学の合コンにも行かなかったし、お店のホステスたちにも全く興味がなかった。
ママしか見ていなかった。
人として、女として、その容姿も知性も人間力も、何もかもが他の女たちとは次元が違っていた。(というラヴイズブラインド状態だったのでしょう)
調教されること 5年
その頃、バブルの終わりが始まっていました。
1980年以降に生まれた方は、「バブル」を言葉として聞いたことはあっても、当時の夜の世界で何が起こっていたかご存知ないでしょうね。
祇園の高級クラブと言えば、チャージが 1人 1万円の世界です。座っただけで 1万円かかるということです。ボトルをおろすと一番安いもので 8千円、ヘネシーなどをおろせば 2万円。
そういう場所に普通のサラリーマンが日常的に通っていたのがバブル時代です。店内では、チップやゲームのご祝儀として諭吉が飛び交っていました。
株価が低迷し始め、バブル崩壊などの言葉がメディアで頻繁に報じられるようになると、その影響は夜の世界を直撃しました。
客足が徐々に途絶え、もともと自分のお金で飲んでいた人だけになりました。祇園のクラブがバタバタと潰れていきました。
ママのお店は潰れませんでしたが、お客が減ってヒマにはなりました。
アフターも減ったので、ほぼ毎日のように閉店後飲みに行くようになりました。ママと行くか、チーママと行くか、3人で行くか。
3年も働いていると、ママ、チーママに次ぐ古株になるのです。
コロナの時代にはちょっと想像しにくいでしょうが、「夜遊び=飲むこと」な時代でしたね。
その夜も、店が終わってママとふたりきりになったとき、当たり前のように飲みに行くか、という気分だった。
ママが「面倒やからここで飲もか」と言ってカウンターに掛けた。
私はお酒をつくってママの前に置く。
ハーパーをロックで。煙草はバージニアスリム。時代ですね。
ママは「今日もヒマやったなあ」とつぶやいて、細長い煙を一直線に吐く。
ふと、ずーっと疑問に思っていたことを口に出す気まぐれが起こる。
私「ママは、彼氏とかいるんですか?」
ママ「おれへん」
私「へぇ。意外ですね」👈心臓が強打し始めている
ママ「男おったらこんな仕事でけへん」
うう。次の言葉が出てこねぇ・・・
ママ「チーフは彼女おれへんの?」
おるわけないやん。ずーっとママが好きなんやから。
私「ママの彼氏、僕じゃダメでしょうか?」
・・・なーんてね(笑)、と言おうとしたら。
ママ「チーフならええかな」
まったく圏外な言葉にあたふたする間もなく・・・
ママ「うち日本人やないよ」
私「・・・え?」
ママ「韓国籍や。”ザイニチ” てやつ」
当時の私はその言葉も、その存在も知らない。
ママ「ひくやろ?」
私「いや・・・たぶんその意味がわかってません」
ママ「そっか。チーフは大阪の子ちゃうもんね」
言ってから、ママは寂しげに笑った。
当時の日本における在日韓国人・朝鮮人問題は、大阪では身近な現実。
それ以外の地域では、一部の人しか関心を持っていなかったようです。
1週間後、私はアパートを引き払って、ママの家で同棲生活を始めることになります。
四条烏丸のママの家は驚くほどに質素で、これが祇園の高級クラブのママの生活だったんだ、と清々しい衝撃を受けました。
そのまま、祇園のママとチーフは夫婦同然の生活を 4年過ごしました。
大学はなんとか卒業しましたが、就職はせず、ママのお店で働き続けました。
私は何度も「籍を入れたい」と提案しましたが、ママは「親御さんが反対しはるからやめとき」と言いました。
ママはすでにオーナーママになっていましたが、思うところあってか、ついにお店を閉じることにしました。34歳での引退でした。
不景気とはいえ、薬剤師の資格を持っているママにはいくらでも就職先があったはずですが、「東洋史の勉強がしたい」と言って、大阪の大学院に通い始めました。
一方、25歳の私は東京の会社に就職しました。
私たちの関係は、私が東京から大阪に通う事実上の週末婚になりました。
こんな父に誰がした
1年近くそんな生活を続けた頃、私のロンドンへの転勤が決まりました。
私はママをロンドンに帯同するつもりでした。そのためには、ビザを取るために法律上の婚姻関係を結ぶ必要があります。
でも、それは実現しなかった・・・。
私の父が猛烈に反対したからです。
私は、昭和ひとケタ生まれの父を、その世代にしては話のわかる人間だと思っていたので、そこまで強固に反対されるとは予想していなかった。
9歳年上という年齢差については、「いいじゃないか」と父は鷹揚に笑いました。
ママの経歴についてもすべて話しましたが、父はそれもまったく問題ないと言いました。
むしろ、「祇園のママか。でかしたなお前!」とうれしそうでした。
父が許さなかったのは、ママが在日韓国人だというただその一点のみでした。
それだけは絶対にダメだ、と父は頑として言いました。
わけがわかりませんでした。
父がそんな ”思想” を持っていたことを 26歳にして初めて知ったからです。
私は実家で何日もかけて父と話し合い、父がなぜそこまで在日韓国人にこだわるのか、必死で理解しようとしました。
そして一つの結論に達しました。
父は日本という国家によって、どんな魔法を使っても解けないくらい強力な洗脳教育を受けたのだと。
父の父(明治生まれ)から受け継いだ思想だったかもしれないけれど、どちらにしても、日本という国が当時の国民に施した思想教育が元凶なのだと。
今でも忘れられない父の言葉です。
「俺は外国人がダメだと言っているんじゃない。金髪でも、黒人でもいい。だが、在日韓国人だけはダメだ。どうしても在日韓国人と結婚したかったら、俺を殺してからしろ」
父に対する怒りはなかった。
父をこんな人間にした(当時の)日本という国に対する怒りが渦巻いていた。
「親御さんが反対しはるからやめとき」と言ってたママの真意がわかった。
声をあげて泣いた。
国の「教育」によってこんなふうにされてしまった父と、在日韓国人たちがかわいそうだった。
私はひとりでロンドンに発ちました。
貴女が私を作った
ママへ。
私は貴女に 3年片想いし、5年鍛えられました。
貴女に教えてもらったことは数えきれません。
酒の飲み方
金の使い方
人の愛し方
いい女とは
いい男とは
優しさとは
仕事のこと
遊びのこと
人生のこと
18歳から 26歳までの 8年で、私のコアは貴女によって作られました。
貴女は私の体の一部です。
貴女を捨てた私を恨んでいますか?
貴女のことだから、飲んで、泣いて、笑って、またかっこよく生きていくのでしょうね。
ママ。
私を作ってくれてありがとうございました。
ママを幸せにできなくてごめんなさい。
ママを今でも愛しています。