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いろいろできてしまう人と比べてしまう自分へ
ゆうです。
人とかかわるのが苦手、ということをnoteに書いていた。
この性格っていったいなんなのだろう。
コミュ障というのとは違うと思っている。
大学院の研究室や師匠の私塾でもふつうにコミュニケーションをとれているし、バイト先の居酒屋でお客さんと世間話をするくらいの社会性はある。
就職して適応障害みたいになったときは、得体の知れない不安のようなものに悩まされ、居心地の悪さに耐えられなくなって会社を辞めたけど、今はそのようなことはない。
それなのに、何が嫌なんだろう。
最近、フッと一つの理由を発見した。
あたしができないことを難なくこなしている人や、いろんなことに挑戦している人の話を聞くと落ち込んでしまう、自分の心の状態に気づいた。
仕事の話はいいのだ。あたしはたいした仕事経験がないから、自分の知らない仕事の世界が無限大に存在するのは当然だと思える。
もっとふつうのこと。例えば、ゲーム好きの人が最新のハイテクゲームの話をしていると、すごいなー、あたしにはムリだなーと思ってしまう。
どうやってそんな詳しい情報を仕入れているんだろう。どこからそんな情熱が湧いてくるんだろうと圧倒される。
ほかには、毎日ちゃんと自炊している人の話とか。
あたしは料理が苦手なので、すごいなーえらいなーって思う。
あと、ギターが弾ける人の話なんかも。あたしが音を出せる楽器といったらカスタネットかリコーダーくらいだ。ミュージシャンでもないのにギターが弾けるって、なんて器用なんだろうと思う。
生き物を飼っている人もすごいなって思う。
あたしは飼ったことがないけど、食事やトイレや健康管理など、やることが無数にあるんだろうなと想像して、やっぱりあたしにはムリだって思う。
そういう話を聞くたびに、自分には何もないことを知らされて動揺してしまう。
他人の才能や努力に嫉妬している?
そういうのとは違う気がする。嫉妬するくらいなら、自分もやってみればいいのだから。
あたしは、👆に挙げたどれもやる気がないのだ。
じゃあ何があたしを動揺させるのか。
あたしという人間は何ができるのか、書き出してみる。
社会学の修士課程に学んでいて専攻分野の論文が書けたり、けっこう難しい本が読めたりする。
一人暮らしができる程度の生活スキルがある。
居酒屋バイトの仕事を一通りこなせる。
家族や友達とときどき会って時を共有できる。
香港に3年住んだ経験から英語はそこそこ話せる。
そこでペンが止まった。
これ以上思いつかない。たったの5つか。
ふつうの人は、仕事関係のスキルや趣味のことでもっとたくさん書けるんだろうな。あたしにはそのどっちもないから、これくらいしか書けない。
これだけでも生きていけるってことなのか。
だったら、その何倍もやってる人たちって生きすぎじゃないの?
世の中には👆で挙げたことを全部やってるような人もいるだろう。
ゲームが好きで、毎日自炊して、ギターが弾けて、生き物を飼っている人。しかもフルタイムで働きながら。
やってることの総量が違いすぎる。それは容量が違うから。器の大きさが全然違うってこと。
それが動揺の正体なのか。
これは能力というのとはちょっと違って、人生という袋のサイズみたいなものではないか。
あたしはその5つを入れると袋がパンパンになって、それ以上詰め込む気が起こらない。他の人は同じような5つを入れても袋はスカスカなので、まだまだ入るし、もっと入れたくなるのだ。
この袋のサイズって、その人固有の値であって、生涯を通じてあまり変わらないものなんじゃないかな。
そう考えたら、落ち込んだり動揺したりするのがバカバカしく思えてきた。
袋のサイズは人によってピンキリ。それは自分の人生に対する期待値が異なるから。
大きな袋の持ち主は、袋を満たすためにたくさん行動しなくちゃいけない。
小さな袋の持ち主は、生存に必要な営みだけで期待値に達する。
一方で、1日24時間・1年365日はすべての人に等しく与えられている。
同じだけの時間があって、行動量が全然違うとはどういうことなんだろう。
たぶん一つの行動にかける時間が違うのだと思う。
例えば、1本の映画を観るという行動。
ある人にとってそれは2時間で終わる行動でも、別の人にとっては10時間を費やす出来事にもなる。
わざわざ遠くの劇場まで電車に乗って行く。売店でビールとポップコーンを買う。観賞後、パンフレットを買ってじっくり読む。後日、同じ映画を観た友達と飲みに行く。なんならもう1回観に行く。余裕で10時間かかる。
小さな袋にギュッと詰まった事どもは、大きな袋と同じくらいの質量があると思いたい。
あたしは人生に大きな期待などもっちゃいない。
有り余る時間をどう使おうが、行動の数が全然違おうが、その人にとっての人生の重みは変わるものではない、と思うことにしよう。