彼女の実家にて
思い出したくない恋愛は、誰しもあるものなのでしょうか。
「忘れたいことは、忘れないこと」
と桃井かおりも言っているように、思い出したくないからといって記憶から抹消するのは、自分の人生に対して誠実さを欠くような気もします。
30代後半に失恋を経験しました。
でもそれは、忘れたいどころか、一生忘れたくない大切な物語として仕舞われています。
このレイコという女を知ったことで、その後、私の女性観は 180度変わりました。
いわゆる “いい女” よりも、ひとクセある女に惹かれるようになりました。
一般的に男というのは、普通の女が好きなものです。
平均的な顔をした、平均的な性格の女を、”いい女” 判定しているフシがあります。
当時の私は、それと逆の方向に引っ張られたわけです。
レイコと別れた後に付き合った女、トモミのことを私は忘れようとしてきました。
どれくらい忘れたかったかというと、トモミとどこで知り合ったか憶えていません。付き合っていた頃の記憶もおぼろげです。
トモミはたしか理学療法士でした。どうでもいいことは憶えているものですね。
最も鮮明に憶えているのは、トモミの実家に招かれたときのことです。
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トモミが働く診療所は港区にあった。
彼女は、東京のどこか(埼玉寄り?)にある実家に親と住んでいるとか。
当時東京に住んでいながら、埼玉県に一歩も足を踏み入れたことのない私には聞いたこともない地名だった。
トモミとの関係は急速に進展したらしく、出会って数ヵ月ほどで、親に会ってほしい、と言われた。
私も、トモミと結婚するのもありかな、くらいに思っていたのだろう。
トモミの実家を訪問することになり、あらためてその場所を聞いた。
きよせ?
そんな市が東京都の中にあったんだ。
池袋から西武池袋線に乗る。
池袋に行くのも初めてだし、西武鉄道に乗るのも人生初だったと思う。
ちょっとした遠征気分だ。
彼女のご両親にご挨拶する、という緊張感よりも、「石神井公園」の駅名に「ヘンな名前」と思いながら、未知なる方角に向かっている不気味さのほうが大きかった。
トモミの実家はごく普通の一軒家だった。
「ただいまー」
と、トモミが玄関で言う。
誰も出てこない。
トモミのあとについて、リビングらしき部屋に入る。
「ここに座ってて。お父さん呼んでくる」
2階から、のっそりと若い男子が階段を降りてきた。
引きこもりの弟がいることは聞いていた。
私はソファから立ち上がった。
弟は私を一瞥もせず、冷蔵庫から飲み物を取り出して、2階に戻って行った。
しばらくして、お父さんが居間に来た。
「遠いところをようこそ。トモミの父です。とりあえず一杯やりましょう」
満面笑みだ。
お父さんが手際よく焼酎セットをととのえる。
トモミ、お父さん、私の 3人で酒盛りが始まる。
お父さんは、お仕事は? お生まれは? など他愛のない話をした。
終始ご機嫌だ。
15分ほどして、外からお母さんが帰ってきた。
お母さんは、私に挨拶をしてから、食事の支度を始めた。
そのあいだ、私たち 3人は友達どうしのように飲んでいる。
若干、すわりが悪い気がする。
お母さんひとりに台所をやらせてていいのか?
弟の存在はスルーなのか?
「お待たせしました」
お母さんが言い、食事になった。
そこからが修羅場だった。
「トモミから聞いています。3回離婚なさっているそうですね」
お母さんは穏やかに、しかし毅然とした態度で始めた。
もちろん、覚悟していたことだ。
お箸を置いて、居住まいを正す。
「はい」
「説明していただけますか?」
私は、言葉を選びながら、時系列で一つひとつの経緯を説明した。
お母さんは、あからさまに不機嫌な顔をつくり、うつむき加減で私の説明を聞いている。
時折挿んでくるお母さんの突っ込みは鋭かった。
「なんでそう言えるの?」
「そのときちゃんと話し合った?」
「どちらに問題があったと考えてるの?」
「夫婦を続ける努力をじゅうぶんにしたのかな」
お父さんは、上機嫌な態度を崩さず、何度もとりなそうとしてくれたが、お母さんはまったく動じなかった。
トモミは、悲しげな表情で、私たちのやりとりを聞いていた。
その夜、私はトモミの実家に泊まった。
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翌早朝、玄関で、お母さんが私にそっと封筒を渡した。
トモミはまだ寝ていたが、すでに予感していた私は、トモミを起こさずに実家を辞した。
清瀬駅のプラットフォームのベンチに腰掛け、電車を待つ間、お母さんから受け取った封筒の中身を読むことにした。
それは長い長い手紙だった。
「友美が〇〇さんとやっていけるとは思えません」
「友美は駄目な娘です。母親として忸怩たる思いです」
「友美を好いてくれたこと、ありがとうございました」
「でも、〇〇さんに友美は扱えません。友美のことは忘れてください」
「〇〇さんにずいぶんきついことを申しました。お許しください」
何度も読んだ。
何本も電車を見送った。
泪が止まらなかったから。
お父さんとお母さんの態度のギャップに戸惑ったけど、娘を思う気持ちは同じだったんだと気づいた。
お父さんは、娘の選んだ男を信じたいから友好的に振る舞った。
お母さんは、娘の選択眼を信じてないから敵対的に振る舞った。
お母さん。あなたが正しいです。
目を覚ましてくださったこと、感謝しています。
(追記)
蛇足ながら、トモミの両親について感じたことを補足します。
お父さんは好人物でしたが、やはり娘に甘いところがあったと思います。
娘が「この人と結婚したい」と言ったら反対しないタイプでしょう。
お母さんは、同性として、娘のことを(駄目な部分も含め)よくわかっていらっしゃった。さらに、女の勘と年の功により、私を第一印象で「この男はダメだ」と正しく見抜いていらした。食事の支度をしながら対応を考えて、イヤな役を演じることにしたのでしょう。
私の説明を聞いてお母さんは確信を強めたはずです。反省が感じられない、また同じことを繰り返すに違いない、と。
祈るような気持ちで、長い手紙を書いたのだと思います。
男親と女親の違いでしょうか。
母親の強さと、娘に対する愛情の深さに、思わずこみ上げてくるものがありました。