社会に蔓延する空気を変えられるか
私の記事は、noters の皆様の記事とコメントとメールに支えられています。
3~7日の間隔で書いていると、書くネタなど基本的にはないのです。
様々な noterさんの記事を読み、noterさんからいただくコメントやメールに触発されることで、書きたいことが生まれています。
今日の記事も、前回の記事のコメント欄に背中を押されて書こうと思いました。
日本の社会に蔓延する空気のことです。
日本に住んでいない私に何がわかるのか?
私と日本の接点は、日本支社の社員とのやりとりと一時帰国時の日本体験くらいしかありません。本稿では、マスメディアの情報やネット上の見知らぬ人々の意見は無視して、私の実体験をもとに今感じていることを書きます。
日本社会に蔓延するヤバい空気を3点に整理しました。
1点目は、前回の記事に書いた、日本の銀行員と電話で話した体験が一つの実例ですが、もちろんそれだけではありません。
日本支社の社員とのやりとりから一例を挙げます。
細かい話は省きますが、日本で発生した品質検査費用をスイス本社に請求するため、役務契約書 (Services Agreement) の締結が必要だと言われました。その費用、約 3万円。
日本社会に蔓延する空気1点目は、普通の人たちが官僚っぽくなっていることです。
「官僚っぽい」とは、
✅法や形式に縛られて、自分の頭で考えない
✅リスクばかり気にして、効率化ができない
✅その結果、膨大な雑務と書類を増やしている
2点目は、不寛容です。
これは、2022年に一時帰国したときに、マスク率 99%の惨状を見て感じました。もう不要だと思っている人がなぜマスクを外せないのか。誰かに咎められるのが嫌だから? 他人のすることを咎める人がそんなに多いの?
また、以前の記事(☟)では、日本支社の社員がスイス本社のガイジンらを裏で腐しまくる実態を描写しました。
あのとき私は、香港支社の社員という微妙な立場で半笑いしていましたが、日本人社員らの幼稚さに引いたのもたしかです。
感情的な反応。攻撃性。誰かを口撃することがそんなに愉快なのか、と。
むかしに比べて、日本人はどんどん不寛容になっている気がします。
また、世界の中でも日本人は際立って不寛容な国民になってしまったとも感じています。
こういったことは、子供のうちから家庭や学校で教えられることでした。今それが機能しなくなったのなら、どうすればいいでしょうか。
日本のリーダーである首相が全国民に向けて寛容の大切さを説けばいい、と私は思います。紙を読むのではなく、自分の言葉で。
道徳や心の問題を本音で国民に語りかけた政治リーダーは日本にいたでしょうか?
当時のマスク問題にしても、「個人の判断に委ねる」とかしょーもない声明を出すよりも、人に対して「寛容」の心で接し、誰もが安心してマスクを外せる社会を取り戻そう、と国民の心に響く大演説をかますのが指導者のやるべきことだったと思うのです。
3点目は、一億総保身とも言える現象です。
これもまた日本支社の社員の言動から感じていることです(私にとって唯一の観察対象なので許してください)。それぞれの人が自分の地位や立場を守るためのポジショントークばかりしています。
これは今に始まったことではないですが、やはりむかしに比べて、どんどん露骨になっているのを感じます。話し合いや歩み寄りといったものがなく、会議がただのポジショントークショーになっているのです。
マスメディアは無視すると書きましたが、この点については、メディア上で発言する人たちが最もわかりやすい例ですよね。タレントや政治家だけでなく、ジャーナリストや学者でさえも、自分の地位(ポジション)を意識し、社会の空気を読んだうえで、一般大衆にウケそう&保身に満ちた発言のオンパレードです。
普通のサラリーマンと著名人らが同じことをやっています。
保身のためのポジショントークが蔓延るのは、正しさや一貫性を追求する気がなくなってしまったからでしょう。潮目が変われば発言も変わります。180度変えてくる人もいます。
議論する気もないでしょうね。A氏の発言と B氏の発言はまったく噛み合いません。そりゃそうでしょう。己の身を守りながら空気読み力を競っているようなものですからね。
以上、官僚化・不寛容・保身の3点。
これらは、社会全体を覆う空気のようなもので、個々の人間が言動を変えるくらいでは何も変わらないものだと思います。
社会の空気が個人の言動を決めているわけですから。
なので、空気のほうを何とかしなければならないのです。
そこで、これらの空気がどのように醸成されてきたかを考察しました。
不寛容 ➡ 官僚化
という因果関係がありそうですね。
不寛容、つまりおおらかさがなくなることにより、
✅何でも厳密にルール化したくなる(法律、社内規程、マニュアル)
✅小さなリスクも許容できなくなる(内部統制、コンプラ、ガバナンス)
✅失敗やミスが許されない ⇒ チャレンジしない、トップダウン体質
官僚化まっしぐらですね。
ご覧のように、法律やコンプライアンスなど、官僚化によって増えるのは、社会を息苦しくするものばかりです。
不寛容 ➡ 保身
という因果関係もわかりやすいですね。不寛容からくる批判や炎上を恐れ、言いたいことが言えなかったり、悪事が隠蔽されたりするようになります。
保身は、社会の停滞をもたらします。つまり、問題が改善されず、社会が一向に良くならないということです。
以上を図にするとこんな感じ。
問題の起点は「不寛容」にあるという仮説が立ちそうです。
日本人はなぜ不寛容になってしまったのでしょうか?
人に対して寛容になれるかどうかは、その人を仲間と思えるかどうかによると思います。
仲間に対しては寛容になれるけど、そうでないアカの他人に対しては不寛容にもなる。
仲間とは、狭義では友人や同僚などですが、広義では生活圏を共有する人々とも言えます。
ただし、その大きさには限界があります。ダンバーという人類学者は、互いに見知っている人間集団の限界数を 150人と言いました。そのような「顔が見える」規模の集団=地域共同体では、互いを仲間と認識することができ、人に対して寛容になれます。
地域共同体のようなつながりが失われていくと、日本国という 1億人単位の集団でしか社会を定義できなくなります。ネット社会もまた、1億人かそれ以上の母集団からなります。このような「顔が見えない」規模の巨大集団においては、アカの他人を仲間と見做すことができないので、人に対して不寛容になってしまうのです。
私たちの社会は、寛容の空気を取り戻すことができると思われますか?
残念ながら、今の状態を放置していたら無理でしょうね。
そこで、マクロとミクロのレベルで思いついたアイデアを提言します。
まず、マクロのレベルでは社会の空気を変えることを目指します。
地域共同体を再生させることは諦め、地縁でも血縁でもない共同体を一から作る。ナニ縁がいいかな。日本らしくオタク縁はどうか。アニメでもゲームでも音楽でもいい。「〇〇オタクよ、集え!」と謳い、〇〇好きの人間が住みたくなるような集落を建設する。テーマパークならぬテーマヴィレッジ。そのような集落を全国各地の遊んでいる土地に乱立させ、同じ趣味を持つ人たちを住まわせる。それらが新しい時代の共同体になる。
かなり遠回りなやり方ではあるけど、日本のオタク人口は 2030年には全人口の 40%に達する。オタク仲間は互いに寛容だろうし、何より楽しそう。
ミクロのレベルでは、社会の空気を変えることは諦め、個人が寛容に生きることを目指します。
人間を不寛容にした情報媒体は明らかなので、それらから距離を置けばいい。テレビを観ない。週刊誌やネット上の記事を読まない。YouTube を観ない。SNS については、拡散系・炎上商法系のもの(旧 Twitter など)からは退会する。
note記事において note社のことを褒めるのは気が引けるのですが、note は人間が寛容でいられる稀有な SNS だと思います。理由は上で述べたように、顔が見える共同体的な空間を作ることで、noters を仲間として認識できるように設計されているからです。その他の SNS がアカの他人からなる不寛容な社会であるのとは対照的ではないでしょうか。
いろいろと辛辣なことを書きましたが(とくに日本支社の社員について)、一人ひとりの人間は決して悪くない、と私は考えています。官僚化する人も保身に走る人も、「そうするしかない」事情の中で生きている。そのような人を非難するのはそれこそ不寛容というものです。
不完全な人間の集合体である「社会」は、不完全の n乗のごとく制御不能で、歴史をみれば、幾度も崩壊の危機に瀕してきたことがわかります。
社会が壊れそうになるとき、人が輝く。
じつは、社会やシステムが発達して安定すると、人はダメになってしまうのです。
社会が安定して人がダメになった時代から、
社会がダメになって人が輝く時代へ。
今が転換期なのかもしれませんね。
人が輝くほうが、私は好きです。