ファンコットとの出会い方 -私がファンコットDJ/トラックメイカーになるまで-
はじめに
こんにちは、ファンコット軍人です。
皆様は、「ファンコット」という音楽をどのようなきっかけで知りましたでしょうか。
たとえば、
「音楽ゲームでジャンル名「ファンコット(ファンキーコタ)」の曲を遊んだ」
「動画サイトでファンコットアレンジの動画を観て知った」
「ファンコットが選曲されるクラブイベントに友達が連れて行ってくれた」
など、様々あると思います。
まだ他のクラブミュージックジャンル・EDMと比較すると、ファンコットはあまり知名度が高い方ではないのかなとは思います。
そのような中でも、ファンコットという素敵な、気持ちがワクワクする音楽に興味を持ってくださった人がいることが、この音楽ジャンルをメインに活動している者として嬉しい限りです。
今回は私がファンコットに興味を持ち、トラックメイカーやDJとして活動するようになったきっかけについて、お話しします。
こういった経緯があったのだという意味でも、参考になれば幸いです。
※自分語りです 苦手な方はそっとブラウザバックしていただけますと幸いです
※当時の記録類を爆散させてしまったので、記憶を頼りに書ける範囲で記載しています。「この記述は誤りです」「お前そうじゃなかったじゃん」等あればご連絡くださいませ。
1.音ゲーマー期 -まだクラブハウスにも行ったことがなかったあの頃-
時は2010年に遡る。
当時、大学受験に失敗し、無職の状態になった私は、翌年の入試に控えて勉強をしながら
twitterに入り浸っていた(最低)。
主に同じ志を持った大学受験生をフォローしていたのだが、当時beatmaniaIIDXをプレイし、DTMの方法を独学していた(受験勉強は?)私は音楽を製作している人や音楽ゲームのプレイヤーも併せてフォローしていた。
受験生クラスターにも似たような趣味の方がいらっしゃり、その方面の話題が出るのが楽しくて仕方なかった。当時は。
そんなある日、私はポップンミュージックのボス曲で出会ってしまったのである。
ファンキーコタに。
「L.E.D. Vs GUHROOVY - AKATSUKI」
ファンキーコタ。
独特なドラムパターンで、ハードコアテクノよりも重すぎない曲調に、新しい音楽の予感を抱いた。
後でファンコットイベントで先輩DJ達に聞いたところ、ポップンのファンキーコタは相当なエポックメイキングだったらしく、この曲をきっかけにファンコット沼に入っていった方が多くいらっしゃったらしかった。
AKATSUKIに少し魅了された私は、すかさずファンキーコタでWEB検索を実行した。
するとニコニコ動画でひとつのDJmixを見つけた。
後に「Jockie "MASTA BASS" Suama」のアーティストネームで日本ファンコット界を代表するトラックメイカー・DJとなった方が録音しUPした、私が知る限り日本最古のファンコットDJmixである。
私はこれを聞いて、より驚いた。
ドラムパターンや曲調がAKATSUKIに近かったこともさることながら、なにより、サンプリングが自由なのだ。
ただし、この時は「こんな音楽があるんだ」くらいにしか思わず、まさか自分が将来この音楽ジャンルの発信者になろうとは、想像だにしなかった。
その後、大学に入学してから、2011年〜2012年のことはあまり覚えていない。DTMは少ししていた。そして大学から虚無の成績表が帰ってきたのだが、それはまた別の話。
2.ブレイクスルー -クラブイベントへ行き始めた頃-
2013年に入り、音楽関係の知人が増えた私は、知り合いに連れられて、日本ハードコアテクノの祭典「THE DAY OF HARDCORE 2013(TDOH)」に遊びに行った。
これが私にとって始めてのクラブハウス体験であり、EDM体験だった。
更に、TDOHで配布されていたフライヤーのうち、特に興味を惹かれた「OTAKUSPEEDVIBE RELOADED(以下OSVR)」について、誰かを誘うこともなく、1人で会場に出向いた。
そこで私は200BPMの4つ打ち音楽の洗礼を受けるとともに、何人かの同じ音楽を愛好する者たちと、現地で知り合うことができた。
その人たちの中にひとり、ファンコットのDJ・トラックメイカーでもある男がいたのだ。彼を通して、私は3年前に少し興味を持った「ファンコット」という音楽ジャンルを思い出したのである。
(なおこのOSVRでの体験が、このあとの私の音楽活動において、もうひとつの大きな転換点にもなるのだが、それはまた別の話)
そんなある日、私はひとつのニュースを耳にした。
「beatmaniaIIDXの新作にファンコットが収録されている」
本当か。
AKATSUKIからかぞえて3年、ついにまたファンコットが日の目を浴びるときが来たのか。
BEMANI生放送(仮)の配信を観た覚えがある。そこで私は、弐寺に収録される「ファンコット」を聞いたのだ。
「ジャカルタファンクブラザーズ - INSOMNIA」
これを聞いた私は思った。
「ファンコットって、こんな感じだったっけ?」
そう、3年前に聞いていたファンコットの姿とはすこし違って聞こえたのである。
今聞くと猫又Master節の効いた良いメロディをしているのだが、3年前にAKATSUKIやニコニコ動画のDJmixとは、曲の質感が違うのである。
何が違うのか。
ファンコットの姿が変わったのか?
その日から私はファンコットのことが気になってしかたなくなってしまった。
OSVRで知己を得たファンコットのDJ/トラックメイカーの活動を追ったり、
ファンコットの音源を動画サイトで探したり、ファンコットについて解説したブログ記事やラジオ音源を漁るように聞いていた。
3年前よりは情報も、楽曲も増えていた。そこで気がついたことはひとつ。
「ファンコットは3年前から、進化はしているけど、基礎は変化していない」
私が知っているファンコットは、音はより洗練されているが、まだそのときの姿を保っていたのだ。
ちなみに当時、11月9日に日本全国のファンコットDJが一同に介するクラブイベント「MEGA DUGEM」が開催されたのだが、
私はこのイベントの存在を知りながら、渋谷には向かわず近所の映画館で「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版を観に行った(しかも3度目)。
私は今でもこの選択を後悔している。
3.決定打 -そしてファンコットのプレイヤーへ-
ファンコットの研究を自分なりにしているうちに、聞いているうちに自分自身でもファンコットのリミックスに挑戦したくなった。私が始めてのファンコットリミックスの題材に選んだ楽曲は
「Rhapsody - Emerald Sword」
よりによってメタルである。
私はファンコットの解説をしたラジオ音源・ブログ記事を鵜呑みにし
「下地がファンコットなら、上に乗っけるものはなんでもOK!」
と すっかり信じ切っていたのである。にわかものめ。
当然 歪んだギターの音がバリバリ乗った、拙いリミックスが出来上がった。それでも私の中で、謎の自信があり 勇気を持って音楽共有サイトにアップロードをした。
まもなくして私は驚いた。
会ったこともなければ、これまでフォローもしていなかった、ファンコットのDJたちからアドバイスのコメントがついたのである。
どこの馬の骨かもわからない、ファンコットを研究しはじめて間もない人間の作成した曲を、真面目に聞いてくださったDJたちがいた。
これだけでも私の中で、この上なくありがたい気持ちを感じたのだ。
そしてまもなくして、2013年12月。
私は東京渋谷近辺でファンコットのイベントが同日に2件開催されることを知った。
「DUGEM BAYANGAN」と「DUGEM RISING」である。
しかも、BAYANGANが17:00〜22:00、RISINGが23:00〜翌05:00の開催。
今思うととんでもないスケジュールである。イベントをハシゴして頭から後ろまで居るとするなら、のべ10時間ファンコットを聞き続けることになる。
何を思ったか、私は2件とも遊びに行くことを決意した。
当日。
まずはDUGEM BAYANGANの会場に入った。
言うなれば、ほとんどの人が始めましてとなるクラスターのオフ会に
単独で突撃する形となったのだが、そこであることに気がついた。
「ハコの音響で聞くファンコットは、家のそれとかなり違うぞ!!」
ファンコットのDJをしている人はみな、口を揃えて「ファンコットは現場で聞こう」という。その理由が分かった。
低音がよく出るウーファー付きでファンコットを聞くと、キックとベースのリズムが絡み合って、独特なノリを生み出していたのだ。これが心地良いし、縦ノリするも横ノリするも聞き手の自由である。始めて覚える感覚だった。
すっかりファンコットを聞いて(お酒も飲んで)気分が良くなった私は、気がついたら始めましての人々を前にして、
半裸でルービックキューブを解いていた。
(スピードキューバーでもあるので・・・)
当時の様子を収めた動画がまだとある方のinstagramに残っていたので、
恥ずかしいが(胸が出てるし)ここに転載したいと思う。当時の雰囲気を感じ取っていただければ幸いである。
これがデジタルタトゥーか(?)
22:00にイベントが終了し、1時間ほど休憩したところで、DUGEM RISINGの会場に到着した。
そこで驚いた。
BAYANGANで一緒になって踊っていた人たちのほとんどが、RISINGにもいるではないか!体力が凄まじい。
はっきりとは覚えていないが、とにかく楽しくて、いまだかつてこんなにも多幸感を抱いたことがあっただろうかと、私は思ったのである。
なにより、現場にいた人たちが皆優しい人ばかりであった。現場で一緒に踊る人として受け入れて下さった、という印象を覚えた。そして、先輩DJの皆様から、新参者でファンコットに興味を持ち始めた私に、曲の探し方や作り方について、知識を教えて下さったのである。
ちなみに、RISINGの会場でとある当時大いに活躍されていたDJの方に、Emerald Swordのファンコットリミックスを作ったのが私であることをお伝えしたところ、
「あれキミの作品だったの!?」と驚かれたのを今でも覚えている。氏もメタルが好きとのことだった。いまでもその時のことをよく覚えている。
イベントが終わり、自宅に帰った午前7時ころ。私はベッドに入ったのだが、そこである現象に気がついた。
ファンキービートが頭の中をこだまし続けているのだ。
あの日を境に、私の脳に
ファンキービートが焼き付けられたのだ。
・・・それから1ヶ月後。私はDJ KUBUSという名前を授かり、ファンコットのDJとしてステージデビューを果たしたのだった。行動が早すぎる
おわりに
いかがでしたでしょうか。
このようにして、一人のファンコット沼に落ちた人間が生まれ、
現在でも自分なりにファンコットの音楽活動をしています。
ファンコットに関連する情報というより、単に「一般人の自伝」に
なってしまったきらいはあるかと思いますが、このnote記事が何かの参考になれば、またひとつの読み物として楽しんで頂けましたら幸いです。
また、もしも私の(ひいてはDJ KUBUSの)活動を通して、または大日本ティッケー軍の頒布物を通して、ファンコットという音楽に興味を持ってくださった方がいらっしゃいましたら、これに勝る喜びはありません。
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