2万6千市民の命のために考えるべきこと(前編)
近年、自然災害は激甚化の一途をたどっている。市長に就任後してこの3年、「50年に一度」がおおよその目安とされる「大雨特別警報」が、毎年毎年、嬉野市を含む佐賀県全域に発令され、異常事態が常態化している。隣接する自治体では、大規模な浸水被害や尊い人命を失う事態にも直面しているが、嬉野市ではすんでのところで致命的な被害を免れている。関係者の懸命な努力も当然あるが、大半は急に雨足が弱まるなどの幸運によるところが大きい。それゆえに「結果オーライ」的に、市全体としての危機感は希薄であると感じている。ことさらに危機意識を煽り立てるつもりはないが、2万6千市民の命を守るために私自身が考えていることを共有することで、嬉野市民、ひいては国民の災害に対する防災・減災への意識向上を図りたい。
嬉野市の地勢にみるリスクと「つかの間の平和」
嬉野市は、佐賀県管理の2級河川「塩田川」がちょうど真ん中を貫くように流れている。嬉野町不動山地区の虚空蔵山から滴る水に始まり、轟の滝で岩屋川内川と1つになり、嬉野温泉街に注いで情緒ある水辺の景色を創り出す。その後、清流・春日渓谷を源とする吉田川と合流して勢いを増すと、かつて「暴れ川」として畏れられつつも、蛍火の灯りに包まれる美しい里山と豊かな実りをもたらす肥沃な大地が広がる塩田町へと続く。白壁土蔵の街並みが美しい塩田津も、有明海の干満の差の大きさを利用して、陶磁器原料を運び込む天然の引き込み港として栄えた。これらの地勢を総合すると、山間部も低平地が広がるため、土砂災害や内水氾濫などあらゆる形態の災害に警戒を要し、河口から6㎞ほど距離はあるものの有明海の潮位も影響するということになる。塩田川はもともと「潮高満川」と表記していた。過去に度重なる水害に悩まされたこともあり、当時の町長や関係者の尽力で上流に2つのダムが建設され、河川改修や堤防の補強といったハード整備が行われたことで、安全度を飛躍的に向上させることができた。特に吉田川上流の横竹ダムが完成した平成13(2001)年以降、大きな災害に見舞われることがなくなり、「つかの間の平和」が訪れていた。
水位急上昇、アリが這い上がってくるような悪寒
(嬉野市役所塩田庁舎市長室から望む水害時の道路冠水))
平成30(2018)年7月6日の昼下がり。前日から降る雨がにわかに強くなり、土砂災害警戒情報が出る中だったが、普段と変わらず公務にあたっていた。午後4時半ごろに塩田庁舎に戻ってきたときには、雨足は少しだけ弱まり、いくぶん空が明るくなったようにも見えた。だが、「観測史上最大の1時間84ミリがすでに降ったとみられる」という記録的短時間大雨情報がもたらされ、すぐさま佐賀地方気象台長からのホットラインから大雨特別警報を佐賀県全域に発令する旨を告げられた。ただちに避難指示を発令した上で幹部職員とその後の対応を協議してふと庁舎の外を見ると、急激に河川や側溝の水位が上がり、道路の冠水が一気に進んでいた。その時に感じた全身にアリの大群が這い上がってくるかのような悪寒は今も覚えている。その感覚は慣れるものではなく、毎年やってくる。2万6千市民の命が自分の判断一つにのしかかる現実に身体が反応している証なのだろう。
後に判明したことだが、嬉野市の上流にある2つのダムで決壊を防ぐために必要な洪水調整が行われていた。ダムの堤体が崩壊すれば流域全体で壊滅的な被害は免れないのでむしろ当然の行動だが、放流開始の連絡はFAXで行われていたため、ひっきりなしに鳴り続ける電話への応対で精いっぱいだったその瞬間は、災害対策本部に情報として入っていなかった。時を同じくして発生した中・四国地方の豪雨被害では、ダム放流により人命が失われたとして、ダム管理者の国や地元自治体を訴える裁判が行われて係争中ということを考えれば他人事ではなかった。直後の8月に開かれた佐賀県市長・町長会議「GM21」。大雨が予想される場合にあらかじめダムの水位を下げる事前放流について、意を決してお願いした。「空振り」した際に農業用水が不足する懸念はあったが、令和2(2020)年6月から佐賀県管理のダム13か所で、平時よりダムの水位を0・5メートルから1メートル下げて雨水を貯める容量を増やす運用のほか、事前放流についてもルール化されている(『佐賀新聞』2020年6月3日付)。かくして初めての災害対応は多くの課題を残した一方で、災害対策こそが最大の存在意義であると認識する大きな機会となった。
近隣自治体の被災から考える
(2019年8月30日、杵島郡大町町の油流出事故の復旧現場)
令和元(2019)年もたびたび大雨に見舞われたものの、なんとか無事に夏を乗り切るかに思われた8月28日。秋雨前線の停滞でしとしと降る雨の中、近隣市町と合同による商工会との意見交換会が行われていた。大雨警報が出ていたため懇親会は欠席して岐路に就き、枕元に置いている本に目もくれず寝床についたが、突如「バラララッ」と窓ガラスにエアガンの弾を一斉に投げつけられたような音がして飛び起きた。時計は午前3時過ぎ。すぐに着替えて塩田庁舎に向かうと、寝泊まりしていた総務・防災課の職員はすでに動き出していた。明け方で状況把握もままならない状況だったが、同4時半ごろに武雄市と境を接する久間地区の区長から「ため池の水の出方がおかしい」と入電。のちに決壊の予兆ではなかったと判明するが、その時点ではためらうのは命取りと地域を限定した避難勧告を発令した。再び雨足が強まることが予想されたため、夜明けのタイミングで避難指示を出すべく、職員を事前に9か所の指定避難所へ急行させた。同5時50分に大雨特別警報発表に伴い避難指示を発令、同6時に指定避難所を同時開設した。前年より10分早い動きではあったが、まだ暗さも残る明け方で避難指示発令の判断に少しためらいがあった点は課題だった。
明け方から息つく間もない対応で周辺状況は分からず、武雄市の広域消防本部や市役所本庁舎が水没し、大町町の工場からの油流出や病院孤立と、近隣市町が全国ニュースになるほどの災害だとは思いもよらなかった。被害を知ったのは、付けっぱなしにしていたテレビから飛び込んで来る映像からだった。民放も含む各局が災害報道に切り替わると、青年市長会でお会いした若手市長の仲間や連携企業から次々と連絡が入るようにもなった。「うちは大丈夫なので、隣の武雄市や大町町を応援してあげてほしい」と言ったものの、被災市町ではそれどころではないかも知れないと思いなおし、いったん嬉野市として受け入れて備蓄している500ml入りペットボトル水道水「うれしのの水」やお茶と合わせて送ることにした。
発災翌々日、支援物資を届けるために杵島郡大町町に入った。大規模な浸水被害に工場の油が流出する重大事故が重なり、目を覆うほどの惨状が広がっていた。農業ハウス内にも油交じりの水は流れ込み、黒く立ち枯れたキュウリが無残な姿をさらしていた。流出元の工場の従業員が汗まみれになりながら油吸着マットを広げて作業をしていた。友人に被災した自宅や土埃が舞う商店街を案内してもらったが、わが町に置き換えて考えると恐怖でしかなかった。油流出事故は30年前の水害時にも発生しており、工場もそれを踏まえた対策をとっていたはずだった。いわば「想定外」の出来事だが、被災した側の感情として割り切れるものであろうはずはない。「想定外」が免責事項にならないのが災害対応の非情な現実だ。いつも優しい笑顔の水川一哉町長が硬い表情で町民と対峙する形で向き合い、お詫びの言葉を述べる姿に言い表しようのない気持ちが胸中を駆け巡った。
運が味方に…「虎口」を脱する
(3たびの大雨特別警報の豪雨で発生した土砂崩れ。2020年7月、嬉野町井手川内地区))
新型コロナウイルスへの対応に追われる中で迎えた令和2(2020)年の雨季は祈るような思いだった。「コロナは暖かくなれば収束するだろう」という楽観論は吹き飛び、観光地である嬉野市はすでに地域経済に人の移動が抑制されたことで多大な影響が出ていた。予定されていた庁舎内や自主防災組織での訓練も軒並み中止となり、練度の面でも大きな不安があった。だが、自然の猛威は容赦なく3たび襲い掛かってきた。
7月6日、朝から強い雨が降り出した。定例の部長会議で4日未明から5日にかけて熊本県など九州南部で発生した豪雨災害について情報共有し、嬉野市の飲料水などの備蓄を確認して余力がある場合には支援を検討するよう指示した。だが、午後になって雨足がさらに強まり、土砂災害と洪水の危険性が高まってきたため自主避難所を設置して早めの避難を呼びかけた。雨雲が連鎖して発生して豪雨をもたらす「線状降水帯」の発生が見込まれることから、8か所の指定避難所を開設。午後3時半に嬉野市と鹿島市で1時間110ミリの記録的短時間大雨情報がもたらされ、3年連続3回目の大雨特別警報発表と避難指示発令という事態となった。災害対策本部のある嬉野市役所塩田庁舎周辺の道路はまたしてもすでに冠水が始まっており、残された唯一の抜け道である塩田川にかかる塩田橋の水位もみるみる氾濫危険水位5・44mを超えていった。塩田橋を映したライブカメラを祈るように見つめながら、何とも言えない無力感が全身を包んだ。水位は6mを超えたが、ここで「神風」が吹いた。雨足は次第に弱まり、雨雲レーダーの降水予想も嬉野市から次第にそれていった。またしてもすんでのところで虎口を脱したようだった。
この日の塩田橋の最大水位を記録したのは午後4時ちょうど。有明海の干潮時刻が午後3時59分。日本一の干満差の有明海が干潮だったからこそ沖に雨水が流れて浸水被害を防ぐことができたが、当日は大潮だったため、満潮時刻の時間帯であったと仮定すると最悪の事態は免れなかった。加えて2年前の教訓によってダムの事前放流があったために、上流で食い止めた水も相当数にのぼる。実際に横竹ダムの水位はあと2mで越水という水準まで迫った。山間地を中心に大規模な土砂崩れや地滑り、道路崩落や農地への被害と大きな爪痕が残ったが、さまざまな要因に幸運も味方してひとまず「虎口」を脱することができたのだった。
根本的見直しが迫られる防災・減災対策
ここまで3度の災害を経て確信したのは、「次は必ずやってくる」ということ。ひたすら無事を祈るのではなく、被災することを前提に被害を最小限に食い止めるダメージコントロールを考えるという認識に改め、防災・減災対策全般の根本的な見直しを迫られることとなった。庁舎内では組織体制と職員意識そのものを大転換し、浸透と人材育成を図っていく。市民に向けても防災意識を大転換すると同時に、少子高齢化も踏まえて防災施設や物資の備蓄を多拠点化して、最低でも現在の各小学校区単位で身の安全を図り、浸水や土砂崩れなどの孤立に一定時間対応できる体制を整える必要がある。そこに新型コロナウイルスの世界的大流行がのしかかり、密閉・密集・密接を回避する避難所のあり方まで検討することも加わった。後編では、どのように防災・減災対策を改めていくのかを具体的にお話したい。
後編に続く