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図書館にあった評論本
図書館に辻井喬による松本清張の評論本があり、借りてきて読みました。
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題名は「私の松本清張論」となっていますが、松本清張と対比するために松本清張が生きた時代の作家も論述されていて、その作家の中でも司馬遼太郎と三島由紀夫にも多くの記述があり、その三人の作家の個性を辻井喬は、うまく表現していると思いました。
松本清張が亡くなられた時にムックが出されることになり、その時のアンケートに辻井喬は
松本清張は分類しにくい作家だが、しいて名前をつけるとすれば、従来いわれていたのとは違うもう一人の国民作家と言えるのではないか
と書いたと本書で述べています。
国民作家とはどんな存在でしょう。
本書で辻井喬は断定せず、語りかけています。
それはポピュラリティー(大衆性)があり、多くの人に読まれていること、それでいて文学としての基本的性格が貫かれているということになるでしょうか。
松本清張を昭和の国民作家と言っていいか、については私も同意します。
松本清張の作品は小説として何冊もベストセラーになり、その小説を原作として映画、テレビドラマ、舞台となって人気を集めました。
松本清張の文学的な評価については、意見は分かれるでしょう。
本書で大衆性があれば文学ではない、という雰囲気が日本にあることも言及されています。
辻井喬は松本清張に肯定的な文学的評価をしています。
私も松本清張の全ての作品が良いとは思いませんが、松本清張のいくつもの小説には文学的価値があると思います。
本書で辻井喬が松本清張を高く評価する理由を、百ページ以上にわたって言及していて、私も松本清張の作品を読んだ後の読後感として、その意見には共感する箇所が多かったです。
その共感した箇所のうちの一部です。
彼の作品が置かれている舞台はいずれもしっかりした社会的構造の上に乗っている。その上、作品の中の主要な人物がそれぞれ特徴的な性格や、物を食べる時の噛み方や汗の匂いや目配り動作の形を持っているのです。だから読む側は作品が持っている虚構そのものを、いつのまにか現実と思い込んでしまいます。発生した事件が現実に似ているので錯覚を起こすのではない。描写の力、文章の説得力が読者に、それを現実と思い込ませるのです。
本書では松本清張の小説の評論だけではなく、松本清張の政治的、社会的活動も記述されていて、あの頃に松本清張はこういう活動をしていたのかと、読むことができたのも良かったです。
貸出期限は3週間となっていて、「私の松本清張論」は3週間の間に何度か読み返したくなる本でした。