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ぐうと鳴り 匂い立つるは白ごはん


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ぴーーー


炊飯が終わる無機質な音。しゅんしゅんと音を立て蒸気を噴き出していた炊飯器がようやく沈黙し、頼もしい顔を見せる。ごはんが炊けた!


しかし焦らない。まだ蓋を開けず、少しだけ蒸らす時間をあげる。意味があるのかどうかはわからない。だがそれでいい。ここは自己満足の世界、わたしの城、少し古ぼけた台所は我が天守閣である。

おかずをお皿に盛りつけて、味噌汁をお碗によそって。お箸は出したか。お茶は注いだか。手持ちぶさたに食卓を拭く。欲を言えば、ごはん茶碗はほんのり温まっているべきなのかもしれない。さて、そろそろいい焦らし具合だろうか。焦らし? 否、蒸らしではなかったか。


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ぱか……


3.5合炊きの小さな炊飯器がしおらしく口を開く。ああ、やらしい!

炊飯釜の濃灰色の中きらめく乳白色の米粒たちは、連れ立ってふわふわとしていながらも一粒一粒がきりりと主張する。鼻腔を刺激する湯気はほんのりと甘く、どこか懐かしさと安心感を与えてくれる。

それはまるで愛しい恋人のようだ。白ごはんみたいな恋人がほしい人生だった。星野源は「首筋の匂いがパンのよう」と歌った。変態だ。素敵な変態である。好きです。


いや、さすがに「首筋の匂いが白ごはんのよう」だとおばあちゃん感が出るか? でも「朝恋人を仕事へ送り出してもそもそと二度寝する布団の匂いが白ごはんのよう」だったら、くだらないの中に愛があるんじゃないですか違いますか違いますね。

ところで彼氏・彼女という呼称より「恋人」という響きはよいなあと思う。彼氏・彼女ってなんだか所有物感がある。人は物ではない。しかし恋人と口にするのはむず痒い。どうしたものか。はあ。我が生涯に一片どころか数百片の悔いありまくりである。わたしは一体何を言っているのか。


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米の種類にこだわりがあるわけでもなく、土鍋で炊いたご飯でないと認めないだとか申すつもりもないのだけれど、わたしは白ごはんが好きだ。

白ごはんはわたしの食卓にほぼ毎度並び、いつもほかほかと湯気をのぼらせている。味の濃いおかずも素材の味が生きるおかずも、どんな食材でも優しくしっかりと包み込んで、良さを引き立たせてしまう。


おかずには、そう、唐揚げなんて最高である。ジューシーな肉汁とあぶらと醤油の香り、にんにくのパンチ力は絶大だ。単にわたしが唐揚げ好きというのもあるのだけれど。なお、噛みしめたときのぷりっと感がたまらないので、もも肉を推す。

口内をコーティングしていく肉汁とあぶら。てらてらと旨味をまとった白ごはんの甘み。噛みしめるごとに幸福感で満たされていく。口福とはこのことであったか。唐揚げのおいしさが引き立てられているのか、はたまた白ごはんのポテンシャルが高められているのか。そんなことはもうどちらでもよかった。


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ふりかけで食べるのもよい。塩こんぶ、ゆかり、あーあとなんだっけあれ、おかかとか海苔とか入った……そうそう「旅行の友」。あれは定番のおいしさだ。間違いない。確か母の好物である。

先日、福岡へ行った友人からお土産でもらった「ぱらぱらめんたい」、あれもふりかけにしてみたらなかなかに罪深いものであった。想像していたよりぴりりと辛くて、でもフレークの口当たりは軽くて、たぶんそこに生卵を落として醤油を垂らすと、もうこの世に帰ってこられなくなるんじゃないかと思う。今度やろう。


忘れてはいけない、味噌汁との相性は格別なのだ。出汁の旨味と少し強めの塩分が、ごはんと絡ませることでいい塩梅となり、するすると喉を通っていく。ひとりで食べるときは、混ぜ合わせてねこまんまにしてしまうこともある。

なに、お行儀が悪い? ひとりの食卓で食べるおいしいものに行儀もへったくれもあるか。もちろん、ひとりではないときのお行儀はよい。すこぶるよい。だがここは自己満足の世界、わたしの城、少し古ぼけた台所は我が天守閣である。


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お腹の虫は先刻よりぐうぐうと鳴り続けている。情けなくも、豪快に。

悲しいかな、生きていればお腹が空くのを止められないのだ。

さて、ご飯を食べよう、食いしん坊どもよ。



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鶴
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