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"魔法"と見分けがつかない

『魔法』とは何なのだろう。

「魔法少女まどか☆マギカ」では、『魔法少女』を"魔女"との対比で鮮やかに描き出した。この作品において、『魔法少女』とは、自らもいずれは「魔女(=茨木のり子「小さな娘が思ったこと」)」になる、という"世界の在り様"そのものをアイロニカルに描写する存在として、磁力を発揮する。『母毒』の必然性と、その必謬性、ひいてはこの世に不条理が有り得ることを、条理のウチに証明する。『キュウベイ(≒エントロピー)』により、"処方箋"として提示される『魂/躯』の入れ子構造の"見える化"は、"こんなの絶対おかしいよ"と邁進するための、"ネオ・プラグマティズム"のススメであった。この作品世界において『魔法』とは、コミュニケーションの可能/不可能を記述する、"意味"から切り離されたものの総称("過剰"に有意味=意味に非ず)として顕在する。

「色づく世界の明日から」( P.A.WORKSオリジナル作品)
この物語世界において『魔法』はほぼ役に立たない。喩えばそれはアロマキャンドルのように、"科学/技術"と呼ぶには億劫さが募る、日常を彩る"表層上の意匠"を形容している。それらを司る『魔法使い』は、"聡い者"、敷衍すれば『特殊な才覚(≒共感性過剰)』を持つものの"矜持"を顕す表象として、遍く作品世界に膾炙する。(『アズライト』洞察、預言、託宣 /『魔法屋』の門柱に、"対"の「フクロウ」の像)

「写真部」と「絵画部」が同居する物語設定(=作中では「写真美術部」)は、『偶然性(=不作為的な作為)』を映す『写真』と、『必然性(=作為的な不作為)』を描く『絵画』の、対比の構図が見て取れる。そこに、異次元の位相から『魔法少女』が加わることで、"偶然"と"必然"を架橋する、"蓋然"を導出するアービトラージ、この世界でいう『魔法』がメゾ領域を取り持ってゆく。そして彼女自身もまた『魔法』を媒介する"依代"として、物語を駆動する役割を担っている。ここにはアニメーションという『作為的な不作為』によって、それら全てを描写する、"メタ構造"を見て取れる。"物語"を現実社会に重ね焼きする、いわば"虚"の内に"実"を見出す、究極の『魔法』を我々世界に齎している。

夜の屋上の撮影会。旧校舎に伝わる"少女の霊"(=居るけどいない=いないけど居る)にまつわる話に興じつつ、『星明かり(=天の星=不作為)と夜景(=地の星=作為)』を同じ画角に収める旨の提案がなされる。"光の強さ"が違う両者は、各々露光時間を替えなければならない。夜空に光る星々にとって、60年余はほんの僅かな瞬きに過ぎない。夜空の星は60年前も、そして60年後も、いまと変わらぬ光を映している。それらはきっと、"違うけど少し同じ、同じだけど少し違う"、ひとりひとりの内なる光を、地上から『魔法』で夜空に投写したものなのだろう。心のうつし文様を『天体』に擬らえる"星詠み"は、この作品通し象徴的な"riff"として、フラクタルに遍在する。

作中、長崎グラバー園を舞台に、レトロ写真館で借りる西洋風衣装を身に纏い、皆で写真撮影に興じる場面が展開する。白人租界的コロニアル様式(=植民地的風景)を背に、コスプレ衣装に身を包み、「カメラフレーム」で切り取っていく。総じて、"~を模したもの"の地平に、幾重にも重なる「入れ子構造」。この挿話にて、写真とは即ち『関係性を映す鏡』であると同時に、『作為的な不作為(≒必然性)』の内側に、『不作為的な作為(≒偶然性)』を見出す営みであることが示される。このエピソードの最中、"デジタブ"でひとり『絵書き』に没入する少年は、"偶然性"を失い方向喪失に陥っていく。

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しかし、ここにデジタブで描かれる『金色のサカナ』は、作者少年の意図を超えて(=不作為的な作為)独りでに泳ぎだし、まるで『魔法』のように少女瞳美の心に彩りを齎す。これは『魔法使い』である「瞳美」が、"意図せず"発動した『魔法』により、『金色のサカナ』が少年から少女のうちに渡っていくシークェンスであることがのちに披瀝する。ここに『サカナ』とは、ことキリスト教文化圏において「イエス・キリストは神の子なり」の頭文字であり、信仰そのもの、"生きる意味"そのものを形容する表象といえる(※頭文字『ΙΧΘΥΣ』はギリシャ語で"魚"=隠れ聖教徒の象徴 ≒ "隠れ切支丹"の地「長崎」より推察 ※"piety"→ラテンpietas=「敬」 ※"virtue"→ラテンvirtus=「徳」→サンスクリットで「言葉(=女神Vāc)」派生語に"virtual"=本質的な~)。重ねて、"華夷秩序"の文脈においては、滝を遡行する"鯉"はやがて竜となる(="不可逆性"を擬らえる≒時間軸の遡行="通過儀礼"の暗喩 ※構図の中央に"竜"を据える"長崎新地中華街"を象るステンドグラスや学園祭のポスター図絵が適宜挿入される)。

「長崎」という地理的"特異点"を舞台に、"眼鏡橋(=サカナ)"から"新地中華街(=ドラゴン)"にかけての連続性の地平において、「瞳美」が自らにかけたであろう『魔法(=呪い)』が解け、彼女に彩りが戻るシーンが挿入される。総じて『金色のサカナ』とは、"偶然性がゲームに意味を与える"ことを示唆しており、「パリスの審判」における"黄金の林檎"の翻案を伺う。そしてパウル・クレーによる絵画『黄金の魚』及び、当該作品にインスピレーションを得た谷川俊太郎氏の詩編に寄れば、エコロジカルに円環する久遠の営みを形容している。

「琥珀」と「瞳美」。作中綾なす"二つ"の位相。時間軸を挟み寄り添うふたりの『魔法少女』は、物語設定上は"おばあちゃんと孫"であり、『タイムリープ(=「入れ子構造」を"魔法"で仮構)』により、暦の還(60年)分、遡行することで同一性(=正統性)を担保している。姓の『月白』は、日中浮かぶ仄白い月(=在るけど無い=無いけど在る)、或いは"新月"のメトニミーを伺うと共に、古代インドの暦法で"白い月"、月が満ち始め満月に至るまでのシークェンスを擬らえる。この「月白家」の"女性"に伝播する『魔法使い』とは即ち"母毒"の原義に立ち返ったもの、けだし『行き過ぎる母の愛は、時に"毒"となる(毒≒薬)』の"イコン"であり、この僅か数ヶ月の時間旅行は、やがては"魔女"となりうる枷鎖を引き受ける、"通過儀礼"を意味している。

"浦島太郎"の御伽噺と対比される"リップヴァンウィンクル"の物語。この両者の語りにおいて決定的に違うのは『玉手箱』のくだりという。曰わく浦島は、"乙姫"により渡される『玉手箱』を開けることで、"欲動"を過去に置き去りにする。その遠近感の地平において、遠ざかる恋慕の情に、"錯誤"と"感傷"を読み込んでいく。最終的に、それらは"記憶"として結晶化(=クリスタライズ)し、物語は完結する。即ち、ここに「琥珀」とは、『結晶化された記憶(=過去)』を暗喩する、「瞳美」の内なる"わたし"であり、世代を超えて受け継がれる"リレーションシップ"の象徴といえる。(琥珀色≒黄金)

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