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戦艦三笠を訪れて

久世光彦は『みんな夢の中 続マイ・ラスト・ソング』で、「北へ」と題して「北」に着目した曲を紹介している。例えば大東亜戦争が始まる頃から歌われていた「北帰行」、「津軽海峡冬景色」、「北国行きで」、「北へ帰ろう」、昭和52年にリリースされた小林旭の「北へ」を続けて久世は書き連ねている。そこで私が気になった一節がある。
「北帰行」を作詞作曲したのは宇田博である。そこで、久世はこう書いている。
「この歌を作ったとき、宇田博は旧制旅順高校の二年生で、休暇か何かで東京の実家へ戻っていたのが、学校のある町へ帰る歌なのである。つまり、遼東半島はロシアの租借地だったのが、日露戦争のあと日本の支配下に入り、第二次世界大戦が終わるまでそのままだったから、台北高校や京城高校があったのとおなじように、旅順高校という旧制の高等学校もあったわけである。ということは、この歌のタイトルは、正しく言えば「西北帰行」になるかもしれない」
遼東半島は大東亜戦争後、ソ連から中華人民共和国に返還されているが、50年もの歴史の間に様々な国に激動の歴史に翻弄された半島と言える。久世の言葉に出てくる「日露戦争」と縁がある場所に行くことができた。
三笠公園である。日露戦争で活躍した戦艦三笠は、公益財団法人 三笠保存会で管理されている。やはり戦艦三笠を語る上で欠かせないのは日露戦争、東郷平八郎連合艦司令長官との活躍であり、明治38年5月27日にロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し大勝利を収めたことによりロシアは継戦意欲を失った。アメリカ大統領の仲介で米国ポーツマスにおいて日露講和条約が締結されたのである。
 その後、三笠はワシントン軍縮会議で、日・米・英の艦艇保有隻数を制限することになり、軍艦籍から除かれることになるが、日露戦争を顕彰する意味で記念艦として保存されることになる。大正12年のことである。そして同12年9月1日に発生した関東大震災の影響で、東京の芝浦に行く予定から現在の横須賀に置かれることになった。東郷平八郎が存命時に記念艦になったのも感慨深いが、本来大東亜戦争敗戦時に解体されても不思議ではなかったが、奇跡的に現在でも残っていることはある意味奇跡である。
私は令和5年4月22日によこすか芸術劇場で『ラマンチャの男』を鑑賞する前に戦艦三笠を観ることが出来たのである。
威風堂々とした姿に私の体は血湧き肉躍る。日露戦争で活躍し、尊敬する東郷平八郎わ秋山真之が居た場所が令和の御代にも存在することが奇跡である。そして日露戦争の勝利は東郷神社、靖國神社、そして戦艦三笠に留められているのである。
現役で活躍されていた軍艦に上がることが出来るとは奇跡である。それに東郷平八郎が指揮していた場所にはプレートで名前が刻まれている。
同じことを繰り返すが、大東亜戦争に敗北し、日本国憲法を甘受した日本において、明治期とはいえ活躍した軍用艦が保存されているのは奇跡としかいいようがない。もし、ソ連が日本を統治していたならば、恨みつらみで三笠は真っ先に解体されてスクラップらせていただろうと思うと顔が青ざめてくる。
東郷平八郎、秋山真之が歩いたであろうチークの甲板を歩くと時空を超えて、恐れ多いが2人と対話した様な気持ちになる。この艦内を英霊は歩き、日本を護り権利を維持し発展するために働いたのである。
 靖國神社に参拝するのと違う意味で、よりリアリティを持って英霊の魂を感じたのである。艦内にある神社に参拝し先祖への想いを深くしたのである。東郷平八郎の部屋に入ると背筋が伸びる。
久世光彦さんの話に戻るが、もし日露戦争に敗北していたら「北帰行」も存在しなかっだのだろうかと思う。歌も無論だが歴史に翻弄されるものである。歴史的背景を咀嚼しながら歌を味わうのも悪くはない。そんなことを感じた1日であった。



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