記事一覧
視聴者の仕事は愛? または正義? 『ONE PIECE』とパラパラ漫画⇄映画(JLG追悼ver.)
1.岡崎京子が観たゴダールはどれだったのか問題
気がつけば二階堂ふみ主演で映画化された『リバーズ・エッジ』の公開が始まるのが2018年初春、すなわちもうすぐそこまで迫っているという、例えば昨年同様にジョージ朝倉が「別冊フレンド」で連載していた人気漫画を原作にして若手女優の小松菜奈が主演を務めた『溺れるナイフ』についての映画時評で菊地成孔が思わず「映画は漫画の巨大なノベルティと化すのか?」(“し
『朝の連続テレビ「小説」論序説』補遺&解説
ゲンロン批評再生塾2017年度の第3回「小説の『自由』度について」(講師:渡部直己)で提出した課題批評がこちらです。
・朝の連続テレビ「小説」論序説 おしん・あまちゃん・あらくれ
そしてゲンロンカフェで7月12日に行われた講評&プレゼン用に結局使わなかった『おしん』/『あまちゃん』/『あらくれ』における主人公の動線の図がこれです↓
【スライド資料テキスト】
① 批評再生塾3期生が前回の
食べる・殺す・味わう --ハンニバル・レクターの問い
些か遠回りだが、まず2017年のアカデミー賞を受賞しているディズニーの3D長編アニメ『ズートピア』のことを思い出していただきたい。
そこで描かれていた、か弱い草食動物には不向きな職業だという無理解を跳ね除けて街の立派な警察官になることを夢見るウサギの物語の下敷きになっているのは、周りの獰猛な肉食動物(=男たち)と比べて一回り以上小さな体格差にもめげずにトレーニングウェアを着て山道を走り回る野外
幽霊のカメラ目線 クロサワキヨシ的アイドル論
麻生久美子
今のところ、黒沢清の作品に出現した幽霊はすべて動いている。物陰でただ佇んでいるだけにしても、こちらに向かってゆらゆら上体を振り乱しながら襲いかかって来るにしても、3次元空間上の人間に近い姿を借りてあの世から再来する「生きてはいないが消えてもいない」像として目撃されている。
……という事実を改めて確認してみたのは、「映画」監督を職業にして撮っている以上一見当たり前のようだが、逆に
花火、映画よりもなお --ハイブリッドなアジア映画史のために
1. 二つの「橋」、二つの「光」
かつて立川談志や古今亭志ん生といった古典落語の名人たちが十八番にしていた「たがや」という演目があるのだが、かいつまんで説明すると、その噺の舞台設定である江戸時代から両国の川開きの日に定例行事となっていた花火見物の群衆が隅田川に架かる両国橋の上から賞賛を込めて「玉屋!」「鍵屋!」と花火師の屋号をコールしていた当時の風習に倣って、気性の荒い職人と侍の喧嘩のドサクサ
星アンド窓 蓮沼執太にあって星野源にないもの、またはその逆について
いま、この瞬間にわれわれが名前を呼ぼうとする二人の男のどちらかが先に生まれたかなどという偶然の定めに対して異議を唱えようとする神をも恐れぬ者もよもやおるまいが、ここでは便宜上、プロフィール上に登録された生年月日の順にデータベースの暗がりから浮上させてみるほかはなく、西暦1981年1月28日生まれ、埼玉県出身のシンガーソングライター兼俳優である星野源と、一方の1983年9月11日生まれ、東京都出身
もっとみるラッパーは2度死ぬ--TRAPのマゾヒズムと“パリピ”身体の彼岸
前回の課題ではヒップホップがなぜ「今ここ」の上下運動のリズムに没入していくのかの「壊れた都市空間」を揺るがす震度=バイブレーションの所在にまで辿り着いた。低音のキックとベースを増幅したビートを乗りこなして床をガンガン踏み鳴らすダンスというのはトゥシューズの爪先で立つエレガントさを競うバレエの身体表現などと比べても、合理的に整序された体系を構築して精神的な高みへと上昇する志向の西洋の文化とは真逆の
もっとみる「みなとみらい」はなぜ「体売らないと生きてけない」と韻を踏んでいるのか? 日本語ラップと“終わらない都市計画”論
1. アンパンマンとアンデパンダン --ヨコハマトリエンナーレを抜け出して
平成日本の都市部で開催される国際美術展の先駆けになった第1回目「メガ・ウェイブ -新たな総合に向けて-」が始まったのが2001年9月で、パシフィコ横浜のホテルの外壁に巨大なバッタを出現させた椿昇+室井尚の特撮映画めいた巨大彫刻が地元民の話題になった。
そこから第 6回目となる「ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座
ガチとフェイクの皮膜論 -- アイドルでもヒップホップでもない『10年代の想像力』
芸といふものは虚と実との皮膜の間にあるものなり 〜「批評宣言」のプロレス性〜
これを機に虚心に読み返してみて引っかかったのは、2007年の『ゼロ年代の想像力』連載第1回に付けられた副題「〜の向こう側」とは、ヤンキー漫画(『疾風伝説 特攻の拓』)の磁場から派生した言い回しなんじゃないかという論戦スタイルのバックボーンなのだが、そこで“「鈍感で怠惰なこの10年間の批評」の向こう側”の指し示しにもま
敗者は映像を持たない 〜2017『この世界の片隅に』Remix〜
まずは劇中の日付けが昭和20年8月15日の正午に至り、義母・儀姉らと縁側で横一列にラジオの前に揃ってしかめつらしく座して終戦を告げる 玉音放送に直面した主人公の「なんで? そんなん覚悟の上じゃないんかね⁉︎ 最後の1人まで戦うんじゃなかったんかね!?(原作では「うちはこんなん......納得できん!!」)」という無念の台詞を聞き届けることから始めよう。この叫びがどの方位に向かっているのか別の角度
もっとみるアンビエント保坂和志論 ーー神奈川県某所のサウンドスケープから考える
とりあえず適当に保坂和志が小説家へと生成したデビュー作辺りから順番に著作を辿って行くと、まるで小説の入り口が厳格な掟に決められ ていてそこ以外に通り道が開いていないかのように、人間が猫・半人間(社会的に未熟な子供や居候の若者)を拾って世話をする・飼うところ から作品が書き始められていることに気づく。
そして『プレーンソング』の続編『草の上の朝食』では、道端で見かけた子猫の飼い方について相談し
朝の連続テレビ「小説」論序説 おしん・あまちゃん・あらくれ
国民的○○の系譜
時刻表示は午前08時00分。誰もが日々そこにあるものとしてやり過ごしているかに見える、昼休みの再放送を含めれば月曜から土曜まで正 確に毎週同じペースで放映される朝昼15分間のループ=帯番組。
獅子文六原作の『娘と私』を第1作目にして2017年現在の第96作目『ひよっこ』まで50年以上放送が続いているため、通称「朝ドラ」とし て日本人の見慣れた日常風景に浸透してしまっている
Amazonレビューの後で、文学を論じることは野蛮である。--お客様、あまりにお客様的な★★★★★論壇の未来(は段ボール箱の中に)
三度目の「野蛮」
まず最初にアドルノの命題が呟かれた。第二次世界大戦後の一九四九年に書きつけられた「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直 面している。アウシュヴィッツ以後、......」という一節から取り出された「文化産業」批判の切迫したフレーズが、今なお多様な解釈へと反響 してバズり続けているそのエッセイはちくま学芸文庫の『プリズメン--文化批判と社会』(この商品のレビューはまだあり