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父が逝った
9月11日といえばNY同時多発テロ。
そして父の命日にもなった。
運命論者だった父は、87才でこの世から旅だった。
全ては最初からプログラムされている、と言っていた。
しかし、生きたいと死にたいの間を行き来していた。
「人は誰も死ぬ、僕は長生きはしたくない」
彼が50代の時は、60才で一升瓶を抱えて死ぬのが理想だった。
それが、60才になり、70才になり、2012年に腎盂ガンを味わい、死の恐怖を味わった。
幸か不幸かその半年後に妻(私の母)の胃がんが見つかり、自分の腎盂ガンの手術から7か月後からは、母の介護に精を出し、生きる意味を見つけた。
母が78才で亡くなった時、姉は父が弱っていき後を追うように逝ってしまうのではないかと心配していたが、私にはそんな想いは一欠けらも思いつかなかった。
案の定、母が亡くなって1年後、GFを作り彼は文字通り生き返った。
「生きたい」・「死にたくない」人になった
父79才。彼女さんは80才。
妻が亡くなって一年間は喪に服したが、一年が過ぎた途端に「彼女」を家族に紹介した。
「僕の唯一の相棒なのだけれど、今度一緒に食事でもどうか?」と電話をかけてきたことがあった。
私は「パパがどんな人とお付き合いするのは良いけれど、私にとって母親は一人だし、今更家族を増やさないで欲しい」と、早い段階で線を引いたのを鮮明に思い出す。
姉には結婚したいとまで言ったらしいが、姉もさすがにNGを出したという。
父は若い頃から恋多き男だった。
母は何度も離婚を考えた。
しかし、中学生だった私を、女で一つで養うことができないからと離婚を諦めた。
良い日もあったかもしれないが、父は母を愛していなかった。
はっきり家族の前で「ママのことは尊敬しているが愛していない」と宣言した。私が中学2年生のクリスマスの夜だった。
その時から、父を好きだと思ったことはない。
ただ今思えば、父親の責任は果たしてくれたことには感謝し尊敬している。そう考えれば、父の「尊敬しているが、愛していない」は間違っていない。
ただ、言葉にすることは人道的ではないと今でも思う。
母が亡くなる時、在宅介護での看取りだった。
友人たちが訪ねてくれたり、家族が声を掛けてくれたりしたので、父としては一番理想的な死に方だったのだと思う。
母も自宅に戻りたいと言っていたので、最後の1か月半を家で過ごしたのだけれど、果たしてそれが母にとって幸せな時間だったのかは不明だった。
介護士さんや往診の医師、鍼灸師など外部から人の手を借りることで助けられたことも多かったけれど、多くは父が介護の主導権を握っていた。
日中の数時間は私がいるとしても、母は父に申し訳ない気持ちを持ち続けた。
父のストレスは、言葉の暴力という形で母を苦しめた。それでも最後まで母は父を頼っていた。十分置きに「パパは?」と私に確認をしていた。
そんな母が亡くなって、1年間は喪に服したが、父の立ち直りの早さには驚くものがあった、恋人ができれば、ほぼ毎日彼女の家に遊びにいって、腎盂ガンも難なくクリアした。
2015年11月の母の死から、2024年3月の新型コロナ罹患までの9年、人生でもっとも幸せな時間を過ごしたと言って過言はないだろう。
父の死後、通夜の席で彼女さんから「まさか80才になって人を好きになるとは思わなかった」という話を聞いて、「運命の出会いですね」と私から水を差すと、彼女は「そうなのだと思う。もっと早く出会いたかったと言っていた」のろけた。
その時に、88才になってまだ「女」でいる老婆の恐ろしさを知った。
自分が、亡くなった元の妻よりも愛されてた最後の女性だという自信がその笑みからにじみ出た。母のことを心から不憫に思った。
彼女が愛おしそうに、父の顔を撫で、頬に口づけをする姿は、不思議なものだった。
父、逝く
しかし、残された子ども達3人は、父を家で看取ることはしなかった。
肺炎で入院した当初から施設に入れることが決まっていた。もちろん父の意思に反していたが、医療的にも難しいとう医師の判断も家族の決断の後押しになった。
看取り士を目指した私だったが、父の死を通して、改めて看取り士の役割について自信を失った。
母の最期の1週間を汚した父の看取りはしたくないと思い
実際に私は看取りの場に参加しなかった。
父の死が迫っていたのは解っていた。
9月6日が最後だった。
「また来るからね」は嘘になってしまった。