ただの駄文②

正月が暇すぎる。日頃の割と忙しい日々の中を平常運転だと思って生きているせいか、この何も無い、しなくてもいい時間というのが妙に居心地が悪い。

思えば昔から長期休暇というものの扱い方がうまくない。中高で部活動をしていたときも、大学でエンジニアリングをしていたときも、長く休めるぞ~と思っても休暇4日目辺りから、何もしない自分に辟易してきて、体は休めているのに心は休めていないようなよく分からない状態になる。

長い休みがあれば、普段できないような事が出来るのでは無いかとか、思うものの、丸一日予定が空いていると何も出来なくなってしまう…別に休みだから良いのに、何もしなくても。自分を甘やかしてるな等と考え始めます。
そんでもって、その帰結として長期休暇は頑張れなくて自己嫌悪に拍車がかかります。めんどくさいメンタリティ~~。
ので、次から長期休暇こそ、予定をガチガチに入れてやろうと思います。良い旅行とかとか。




完。




といきたいことですが、今回はここでは終わらずもう少しこの退屈さと向きあってみようという趣旨でもう少し時間を取って書いてみる。
なぜなら、たくさん予定を入れるぞ!なんてことは何度も思いつつ、予定を入れたとて、めんどくさいなと思ったりしている。そして結局今に至るわけで。
たとえ、仮に長期休暇をまるまる旅行に費やしたとしても、私が旅の後半では既に旅先で飽きたなと感じてしまうことはなんとなく容易に想像がつくのである。

ここで昨年読んだ『暇と退屈の倫理学』という本を少し思い出す。

『暇と退屈の倫理学』という著書によると、私にとっての休暇が”退屈”という言葉で表現されている。原文に倣うと、私の今の状態は”なんとなく退屈だ”という状態である。”仕事がつまらないから、退屈だ”でも、”テレビが面白く感じられないから退屈だ”でもない。そう、”なんとなく退屈”であり、退屈の根本原因がわからないからこそ、もうこれはどうしようもない。この退屈の状態は著書によれば退屈の第三形式だという。

・第一形式=外界によって生じる退屈
自分の行動とその帰結に対して感じる不満足。満たされることへの欠如。(ex. 仕事がおもしろくない)

・第二形式=内部から生じる退屈
外界と自己の温度差から生まれてくる不満足(ex. クラブに行っても楽しめない。誰かのパーティーに行っても楽しめない。)

・第三形式=なんとなく退屈
(ex. 年末年始にずっと実家にいる)

原文は以下。

退屈の第一形式の場合には<空虚放置>は満たされることへの欠如であった。単にものがいうことを聞かないという。ところが第二形式の場合には、外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になることで<空虚放置>が生じるのだ。次に、退屈の第三形式を登場させる。第一形式の退屈は外からくる。それに対して、退屈の第二形式は自分の中から生まれてくる。その意味では第二形式の方が深い。しかしまだ十分に深くない。なぜなら第二形式ではまだ気晴らしが可能であるからだ。ハイデッガーは気晴らしなどでは挽回不可能な退屈、第三の退屈を主張し始める。それは<なんとなく退屈だ>という状態である。

『暇と退屈の倫理学』

ただ、著書はひたと”退屈”について解明していくだけではなく、”退屈”な状態に対する打開策も僅かではあるが示唆してくれている。それが。”決断する”ということである。

どういうことか。

今生じている”なんとなく退屈だ”という状態は”自由”という状態として捉え直すこともできうる。なぜなら、この”退屈”状態は誰に何かを強制されているわけでもなく、定めた到達点に対する不満足を覚えているわけでもない。ただ暇があるのみで、それはつまり”自由”という状態なのだろう。この自由は可能性として示され、ハイデッガーによるとこの自由の可能性を活かすには、決断せよというのである。

なるほど。”決断する”ことによって、退屈の第三形式”なんとなく退屈だ”状態から抜け出すことができるのか。では、手始めに溜まっている仕事から取り掛かろう。このような決断をしたとする。
だがしかし、ここで一つ問題が生じる。決断をした末にうまれる行動には退屈の第一形式、満たされることへの欠如の可能性を孕んでいる。つまり、なんとなく退屈だという状態から逃れようと仕事を選択すれば、ともすると仕事の奴隷と化し、退屈の第一形式が現れうるのだ。やっていることがつまらない。と

なるほどなるほど。

であれば、最も大切なことは退屈の第三形式=第一形式の構造に陥らぬようにすること、仕事の奴隷にならないようにすることではないだろうか。

整理すると、退屈の第三形式から抜け出すには”決断をする”。これには異論はない。問題は第三形式=第一形式の構造を打破することである。この二者の関係性を時系列に追っていく。私はこの2者は以下のように時を追って推移していく考える。

”退屈の第三形式(なんとなく退屈だ)” ---> "決断する" ---> "仕事をする" ---> "退屈ではない状態" ---> [継続] ---> "退屈の第一形式(不満足)"

決断した直後に、退屈な状態にはなりえない。なぜなら能動的な決断と行動によって退屈な状態を抜け出すことができてるからだ。しかしながら、それは30分後かもしれない、2時間後、3日後、1週間後かもしれないないがどこかのタイミングで再び退屈の第一形式が訪れうる。このとき、私は再び”決断する”ことによって退屈ではない状態を生み出す必要がある。決断する事により、再び初期の能動的な行動への回帰を果たし、退屈である状態から距離を置くことができる。

今の私に置き換えるならこうなる。

正月は退屈である --> 仕事を始める決断をする --> 仕事をする ---> 退屈ではなくなった --> [継続]

重要なのはここから先である。退屈の第一形式に陥らないようにするには、自らの行動が常に能動的であるように”決断”し続けなければならない。能動的に”決断する”ことによって退屈ではない状態をキープし続けるのである。もし仮に、退屈な状態へと戻ってきてしまったならば、そこでまた決断をしなければならない。能動的な行動を選択するのである。

正月は退屈である --> 仕事を始める決断をする --> 仕事をする ---> 退屈ではなくなった ---> [継続] ---> 決断をする ---> [継続] ---> 決断をする

この考え方は、自責思考とも呼べるかもしれない。退屈である時、なぜ退屈であるのかを考え、原因を自分の中に帰属させて決断をする。能動的な働きかけをすることによって自らをモチベートし、自走させる。脳死せずに、自分の仕事は自らでコントロールしていきましょう。
まずは年始、自分を退屈させないべく、決断をしてみようと思う。明日から仕事する。そして決断の連続。退屈になったら、自分から働きかけて仕事をする。その繰り返し繰り返し。やりつづけましょう!

結論

リクルートの創業者である江副浩正氏の言葉「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
一通り書いてみたら、この言葉を思い出しました。うん、今更ながらいい言葉だね!私は全くリクルート関係ないのだけども笑。自分でガンガン仕掛けて面白い環境を作り上げていくぞ~~~~!

みなさま、今年も飛躍の年にしていきましょう~🐉

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