ニューロダイバーシティを尊重する教育:多様性への変革と社会的視線の転換 【伊藤穣一】
私たちは、日本の古来からある、脳や神経のダイバーシティを受け入れる文化について話しました。しかし、最近では、異なる特性を持つ人々を分離し、それぞれ別々に教育しようとする傾向が強まっているように感じます。大量生産の時代になり、工場で働く人々には、ある程度のスキルとともに、一定の標準化が求められるようになりました。そして、私たち日本人は、この標準化や秩序、ルールに従うことが求められます。それは特に、自閉症のような特性を持つ人々や障害者にとって、一定のルールに追従するのが難しい場合が多く、その結果、ルールから逸脱してしまうこともあります。
そして、私たちの伝統的な文化、例えば茶道の中でも、ルールや形式に対する容赦は少なく、左利きの人がお茶を一つ習うのさえ、難しい状況でした。しかし、その一方で、日本文化には、神道のような、もっと自由でインクルーシブな側面も存在しています。私が伊勢神宮を訪れた時、神道が自然と共生する縄文時代から派生し、自然の中で生きる誰かが決めたルールじゃなくて、お辞儀をしたいと思ったら、すればいいけど、したくなかったらしなくていいよって説明されました。これなんか素晴らしいなあと感動しました。
日本社会では、障害がどのようなものか、どのように共存すべきかについての認識が必要です。障害者とどのように関わるべきか、何か問題が起きたときにどのように対処すべきか、これらはわかりません。それは、障害を持つ人々が学校にいない、つまり一緒に育ってこないからです。だから、障害を治すための最初のステップは、障害を持つ人々が小さい頃から私たちのそばにいて、その存在を理解することだと思います。
そして最後に、日本はア、新しい美学や感性を障害と共に提案し、障害を含む中での素晴らしさを見つけることに、うまく対応していると感じます。
学校への期待は人それぞれだと思います。標準化された人間を作ることが学校の役割だとしたら、インクルーシブ教育は困難かもしれません。
ただし、フルタイムで自閉症の子供たちを対象としていル学校は例外です。
そこでは、子供たちが自由に行動でき、それがどんなに奇異に見えようとも認められています。一般的な親から見れば、その学校は奇妙に映るかもしれません。でもセラピストやフロアタイムのメンバーから見れば、それは自由で素晴らしい学びの場なのです。
そして、何を期待するかによって見え方は変わると思います。たとえば最近、インクルーシブ教育と発達支援の間にある矛盾について話しました。
それらは一見相反しているように思えますが、実際には環境によって異なるアプローチが求められるものです。そして、我々はそれらの異なるアプローチを組み合わせ、それぞれの子供に合わせた教育を実現しようとしています。そこでは、文化的な多様性を尊重し、一緒に学べる環境を作り出すことが重要だと考えています。
教育の場として、特別支援学校と一般の学校の選択肢があることは当然です。しかし、それだけでなく、一般の学校の中でも、例えば一対一の学習が必要な子供にはその機会を、小規模グループで活動できる子供にはその機会を提供することができるよう、教育の形態を柔軟に考えることが重要だと思います。
これが本当の意味でのインクルーシブ教育であり、それが全ての子供に深い学びをもたらす学校をつくり出すことに繋がると考えています。
また、学校選びだけでなく、学校の中での選択肢を増やすことも大事です。それは活動のバリエーションを増やすことで、これからの学校の改革を進める上で必要となると考えています。
健常者に近づける教育ではなく、理解しあう教育を目指すべきだと私は思っています。その考え方は、周りの人にとっても教育になると考えています。今後、ニューロダイバーシティに基づいた教育を進めていく事が重要です。
それは、昔の自閉症の教育やセラピーが目指していた「普通に見える行動を普通にする」という教育ではなく、社会全体がみんなに合わせることができるような教育を目指すものです。これこそが、ニューロダイバーシティの真髄だと思っています。
たとえば、貧乏ゆすりが人を落ち着かせる手段だとしたら、それは受け入れられるべきです。社会は、各個人が自分自身であることを促進し、安心感と安全感を提供することが重要です。電車が好きな人が自転車を通じて学習するといった、それぞれの強みや学び方を支援することも重要です。
標準化された学び方や試験制度は、文字を書けなければ、数学ができなければ前進できないという状況を作り出しています。しかし、もしかしたらその人がアーティストとして人生を送る場合、数学は必要ないかもしれません。自分の得意分野を活かすことは、AIやロボットの時代においては特に重要です。
社会が提供するサポートは、人々の視線や価値観、そして文化的包摂性が弱いと感じています。教育方法も変えるべきですが、それ以上に、我々自身の社会的姿勢を変えることが必要です。教育は重要ですが、それと同時に社会全体の変化も必要です。社会の変化を促すためには、私たちが一緒に生活し、自然と包摂性を身につけることが必要です。
当然、自閉症の方々が生きやすい社会を整備することは重要です。しかし、それだけでなく、我々自身がどのように接するべきか、尊重すべきかを理解し、学ぶことも大切です。
私は、これが教育や社会の変化に大いに貢献すると信じています。
学校全体の多様性、男女の多様性、国際学生の多様性、そして各人が追求する多様性を尊重し、促進することが必要です。
そして、AIの時代には、人々が同じようなホワイトカラーワークをするよりも、みんなが違うことをする方が社会的価値が高まると思います。その意味で、ニューロダイバーシティは非常に重要です。また、人々が自分の弱点を補うためにAIを活用することや、学び方を変えることができると思います。
私は、人間の教師が消えることはないと思いますが、教師とAIの組み合わせは、さまざまな子供たちをサポートするためにスケーラブルに作用すると思います。AIは、常に親切で、気疲れすることがありません。そのため、子供たちが何度でも疑問を投げかけたり、難しい質問をしたりすることが可能です。
最後に、AIがホワイトカラーの仕事を奪うというニュースについて触れたいと思います。しかし、AIはニューロダイバーシティを実現するための重要なツールであり、我々はそれを活用すべきです。
現代の働き方を巡る課題について考察しましょう。近年、リスキリング、または再学習の重要性が強調されています。人工知能(AI)がもたらす技術革新の波が、我々にリスキリングの必要性を訴えかけています。
このムーブメントに対しても、リスキリングの実施により、AIが新たな範囲をカバーしてくれるという期待が持たれています。このような状況では、人間が特に力を注ぐべきはアートや創作活動、そして学びと遊びではないでしょうか。遊び方が重要になってくると私は考えています。
また、現在はAIにより仕事が奪われ、ベーシックインカムが必要になるという新たな事態に直面するかもしれません。UBIは一つの方法論であり、民間が資金を集めてUBIを実現する方法や、負担と恩恵をバランス良く配分する国を中心とした方法など、様々なアプローチが存在します。国家の役割が重要だと私は思います。特にアメリカでは一般の人々が資金を持っているため、従来は研究対象にならなかった領域でも研究が行われています。
しかし、基本的なインフラが整っていない、長期的な取り組みが行われないなどの課題もあります。誰が何をするべきか、どのように社会福祉を実現するか、どうグローバル化を進めるか、資金の流れについて考えると、非常に複雑な問題となります。答えは単純ではないことを認識しなければなりません。そして、どのような方法で支援を配分するかが重要だと思います。民間によるUBIが最善策であるかどうかは、私にはまだ分からないところです。
最後に、日本の社会が適材適所の考え方を適応していくことが重要だと思います。私たちは専門家に頼る傾向があり、変わった文化人や達人を大事にする国民性を持っています。この特性を活かし、適材適所で人々が活躍できるようにすることは重要です。ただし、特別な人になるまでのステップが難しく、権威が大きく関わっていることも事実です。
この課題を解決し、よりインクルーシブな方法を採用すれば、日本のチームワークの良さはエンジニアリングやAIの開発、そしてweb3.0の文脈でさらにポジティブな要素となります。
それぞれの面に裏表が存在することを認識し、いい面を引き出しながら、悪い面を取り除くことが重要です。リーダーシップを取る文化を発展させることも重要で、そのためにはコミュニケーションとメディアの役割が鍵となります。
伊藤穣一:日本のベンチャーキャピタリスト、実業家。 元マサチューセッツ工科大学教授・元MITメディアラボ所長、元ハーバード・ロースクール客員教授。千葉工業大学変革センター長、同大学長。