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【19連隊跡地の桜ヶ丘町】
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敦賀医療センター(旧国立病院)から
段々と東に下がる特異な地形にあるのが
昭和の桜の名所 桜ヶ丘町。
戦前に歩兵第十九連隊の諸施設の跡地とされている。
今日は何故この地に19連隊が招致されたか
諸説あるが、私が地元の方々から聞いた話を書き留めておこう。
明治の時代 野坂山から流れる井ノ口川は大変な暴れ川(氾濫)であった。
野坂、金山にあった木の橋はよく流されて
その度に橋の架け替え作業に追われたそうです。
最も被害が大きかったのが
先程から説明している桜ヶ丘町あたり。
大量の川の水が川を越え氾濫し
ぐちょぐちょの沼地、酷いとちょっとした湖畔になるレベルだったそうです。
古く金山の地面であったが為に
そのような災害後の管理も金山が担っていたらしい。
そこで当時の代議士らが金山と相談し、
連隊場をこの地に持ってきたら ぐるりに当然、擁壁たるものも作るだろうから、川の氾濫を食い止めることがらできるんじゃないかと考えたそうです。
確かに、現在もその名残の擁壁は
敦賀医療センターのぐるりに残ってますね。
明治時代だからこそできた改革なのかもしれませんが、
改革とは。
既成概念を取っ払うところから
始まるものかもしれませんね。
書籍「路傍の石」 を
久しぶりに読み直したところです。