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アニメ『小市民シリーズ』を見た人は既に直木賞受賞作の入り口に立っている

原作を薦めるのでは芸がない。

映像化された作品の原作の売れ行きが良くなるというのはもはや物は上から下に落ちるというくらい当たり前のことになっている。わざわざ自然落下を引き起こすために下向きの力を加える者はいないし、同様にわざわざ映像化された作品の原作を推す必要もない。

しかし、リンゴが落ちるさまから$${F=ma}$$という普遍性を導いたニュートンでさえ量子の世界では付き合いあぐねているのが現状だ。やはり何にでも例外というものはある。もしも「リンゴを落としたはずが床で潰れているのはミカンだった」なんて例外が発生したとするなら、これは取り上げないわけにはいかないだろう。つまり原作改変のことである。

しかし原作にあたることを推奨するレベルの原作改変などそう滅多に起きることではないし、起きたらそれはそれで大事件なわけで、そうなるとかえって『響けユーフォニアム3』のように話題になりすぎて弱卒の私がわざわざ記事にする必要はなくなってしまう。

こう考えてみると、やはり私ごときが原作を推すべき理由はこれっぽちもない道理になるだろう。

しかしだからといって、私は本記事でアニメと全く無関係の小説を薦めるというような蛮行を犯す気はない。つまり私は「このアニメが好きならこの小説もきっと好きになるだろう」というものを紹介しようという魂胆なのである。

だからどうか2024年夏アニメで『小市民シリーズ』を好きになった読者の皆様におかれましては是非とも小鳩君のような寛大さでもって小山内さんにつき合うが如く本記事にもお付き合いいただければと思う。小鳩君があのシャルロットに受けたような感動を皆様にも提供できるよう、私も小山内さんのごとき熱量をもって応えていく所存である。

なお、この宣言は私が皆様を小鳩君のように都合よく利用しようとしていることを示唆するものではないのでご安心いただきたい。ゆきという白そうな名前を持ちながら、その実中身は黒いさながら大福のような小山内さんとは違い、私は中まで白いマシュマロのような存在なのである。しかしその一方で、私の連ねる言葉の重みがマシュマロレベルであるかもしれない可能性は、常に頭の片隅に置いておく必要はあるだろう。


1.アニメと文学の相乗効果

実を言うと私は2024年夏アニメが始まる当初、『小市民シリーズ』を見る予定はなかった。では、どうして私が本作を視聴するに至ったのかという話になるのだが、それはラジオで次のような作品紹介を耳にしたことがきっかけとなっていた。

『小市民シリーズ』は米澤穂信氏原作の――

米澤穂信。

「あれ? もしや……」そう思った私は、積読本の本棚の中から一冊の本を抜き出した。

その本のタイトルは『黒牢城こくろうじょう』。もちろん米澤穂信氏の作品である。そしてそれに巻き付けられた帯には黄色のゴシック体ででかでかと次のような販促文句が添えられていた。

第166回 直木賞受賞作

「本には読み時がある」とは積読家の自己肯定の弁であるが、しかしこの時私は確かに『黒牢城』を読むべきタイミングが来たと感じていた。既に購入から約1年。私も立派な積読家である。そしてこれと同時に、アニメ『小市民シリーズ』の視聴も開始した。

結論から言うと、これが大正解だった。というのは、アニメ『小市民シリーズ』から受け取ったあの独特な空気感を『黒牢城』の中に落とし込みながら読むことで、読書における没入感が格段に上がったのである。

とはいえ、片や学園舞台の青春小説、片や戦場舞台の歴史小説である。なぜそんな二つを関連させながら楽しむことができるのかといぶかる向きもあるかもしれない。

しかし実際『小市民シリーズ』と『黒牢城』は似ているのだ。しかもこれは、単に両者がミステリーであるというような上っ面だけの相似のみを指して言っているわけではないのである。

あるいはもっと大胆不敵に語弊を恐れずに言うのなら、アニメ『小市民シリーズ』を視聴した皆様であれば、きっと『黒牢城』の中に小鳩君と小山内さんを見出すであろう――というのが私の主張なのである。

2.『黒牢城』の前身としての『小市民シリーズ』

おそらく読者の皆様は一見私がトンデモな主張を持ち上げたように見ていることだろう。しかし私が思うに、これは解説の連鎖で片が付く。

そこでまずは前提条件というものを確認しよう。つまり、『黒牢城』とはどんな小説なのかということだ。

時代は戦国時代、織田信長が天下統一を目指し飛ぶ鳥を落とす勢いで各国を席巻していた頃。織田に対し謀反を企てる荒木村重《あらきむらしげ》は有岡城にて戦備えをし、毛利家の援軍をたのみに織田軍と戦火を交えようとしていた。

そこへ黒田官兵衛くろだかんべえという男が訪れる。彼は非常に頭の切れる人物であり、村重を前に「毛利は来ませぬぞ」と断言するのだった。

和睦わぼくの使者はそのまま帰すか切り伏せるのがこの時代の習い。しかし村重は官兵衛を捕え、牢に入れよと命ずる。その後戦の火蓋は切って落とされ、村重は長い籠城ろうじょうに入った。

しかし籠城中の城内ではことあるごとに奇怪な事案が発生し、さしもの知将村重も頭を悩ませる。彼が唯一頼りにできるのは、地下の牢獄に捕らえた官兵衛ただ一人しかいなかった――。

さて、これが『黒牢城』のあらましであるが、ここで真っ先に指摘しておきたいのがこの知将×知将の組み合わせである。『小市民シリーズ』をご覧になった方々からすればここに既視感を覚えないということはないだろう。

ことに重要なのは官兵衛と村重の距離感である。このような経緯いきさつなのだから当然仲睦まじくあれるわけはないのだが、二人の間には普通の人間関係にはない奇妙なかすがいが打ち込まれており、それを官兵衛はこう看破するのだった。

「この有岡城で摂州*様の言をまことに解する者は、誰一人ござらぬ。それがしのほかには誰一人。……それゆえにこそ、摂州様はここにおられるのでござる」
*摂州様=荒木村重

『黒牢城』P299(※脚注は記事筆者による)

小鳩君が小市民を目指していることを堂島健吾に打ち明けた時、彼がそれに対し「理解できない」というような素振りを見せたことは皆様もよくご存じのことと思う。これは「小市民を目指す」ことが一般には理解されないことを直截ちょくせつに表現した象徴的なワンシーンだった。

そして一般には理解されないからこそ、小鳩君と小山内さんは理解し合えるお互いを必要としていた。それはまるで、さながら村重と官兵衛の関係のようではないだろうか。

また『黒牢城』においては、官兵衛のさがが次のように説明されていることを見逃すことはできないだろう。

それほどに切れ、また切れることを誇らずにはいられぬのが黒田官兵衛という男だ。

『黒牢城』P91

さぁいよいよ読者の皆様は既視感を覚えてきたことだろう。もはや私から言葉を加えるまでもないはずだ。

このように『小市民シリーズ』とシンクロする要素をいくつも含んでいるのが『黒牢城』であり、そしてそれが日本文学を代表する賞を受賞しているわけである。なんなら出版時期を考えれば『小市民シリーズ』は『黒牢城』の前身であると言っても過言ではない。『小市民シリーズ』好きの方々には今後是非ともこの点を誇っていただきたいと思う次第である。

3.無理なく織り込まれるミステリー

『小市民シリーズ』の魅力の一つには、日常の中へ自然と組み込まれる謎の鮮やかさがある。特にアニメ第5話の「伯林あげぱんの謎」なんかは、日常的に起こり得そうなシチュエーションが謎という体裁をとって表出したひと際美しい構成の1話だった。

米澤穂信氏はミステリー作家の中でもその世界観に合った謎を提供するという点において衆に抜きんでているところがある。当然その手腕は『黒牢城』においても発揮されており、戦国時代の籠城戦というミステリー要素の欠片もないようなところへ小気味よく謎を織り交ぜていくその鮮やかさにはに驚駭きょうがいの念を禁じえなかった。

とりわけ「これは戦国時代ならではだな」と唸らされるのが第二章である。ここでは夜討ちの際に打ち取った5つの武将首の中に敵の大将首が含まれていることが発覚し、一体誰の討ち取った首がその大将首なのかという手柄争いが勃発している。

そしてこの謎は「そんなの誰でもよくね?」と軽々しく考えてはいけないものであった。というのは、組織というのはおおよそ一枚岩ではないのが常であり、それは戦国時代の軍にいたっても同じだったのである。

しかし私がここでこの謎を解く必要性をくどくどと論ずる必要はないだろう。なぜなら『黒牢城』ではことあるごとに「城内の不和は籠城戦において命取りである」という趣旨が丁寧に語られているからである。普通に読んでさえいれば、自然とその空気のひりつきは感じられるに違いない。

なにせ歴史知識が皆無と言って差し支えない私でさえこの緊張感を感じ取れたのだ。『黒牢城』がそれだけ前提知識を必要としない、丁寧な内容であることは私が請け合うところである。

4.静かなる狂気への導線

アニメ『小市民シリーズ』では第6話「シャルロットだけはぼくのもの」から3話を費やして小山内さんの誘拐事件が描かれ、その後2話を割いてその背後にある真実が明かされるシナリオとなっていた。

事件解決後にもう一波乱があるというのはミステリーではよくある展開であるし、事実『黒牢城』もその例に漏れない。だが『小市民シリーズ』を知る皆様がその読者になった場合には、『黒牢城』最終章に現れる〝静かなる狂気〟がアニメ最終盤の小山内さんを彷彿とさせることは必至と言ってもよいだろう。

そしてこの狂気は、物語の中で秘かに潜んでいる可能性が示唆されることによってそのベールを脱いだ時の衝撃を増す。『小市民シリーズ』で言えば、やけに長い電話だとか、妙に凝った内容の助けを求めるメッセージがその役割を果たしていた。つまり伏線のことである。

しかし仮に皆様がアニメ『小市民シリーズ』を視聴する中でそれらの伏線に気づくことができなかったとしても、『黒牢城』を読む資格が自分に無いと考える必要はない。なんならこの点においては『小市民シリーズ』よりも『黒牢城』の方が親切設計とさえ言える。というのも、『黒牢城』の第二章には明らかに解決されずに差し置かれている未解決問題があるのである。

とはいえ、その未解決問題の真相を解明するためにはもう一つある違和感に気付かねばならないこともまた事実である。こちらはなかなか巧妙に隠されているので簡単に気づくことはできないが、もし気づくことができたのなら、最終章で得られるカタルシスは格別のものとなるだろう。

6.文学の敷居は高くない

この記事を書くにあたり、私はアニメ『小市民シリーズ』のPVを見返した。そこには確かに『黒牢城』の文字が『氷菓』とともに添えられている。

しかし、そこに「直木賞」の文字はなかった。

無論、アニメ好きに「直木賞」なんて言葉は刺さらないという考え方はあるだろう。だが、『黒牢城』よりは「直木賞」の方がまだ知名度があるはずだ。なぜ「直木賞」を前面に押しださなかったのか――そう思うと、なんとも口惜しいプロモーションである。

それはさておき私が本記事で伝えたかったのは、アニメ『小市民シリーズ』を楽しまれた皆様方は、既に日本文学を代表する本の一冊を楽しむ準備ができているということである。直木賞という格式に気圧されて「難しそう……」などと嫌煙する必要はもうないのだ。

活字が苦手? 大いに結構。『黒牢城』は章立てがかなり細かく設定されているので読みやすさは抜群である。なんなら1日3ページも読めれば『小市民シリーズ』第2期には間に合う計算だ。ちょうどロス期間の穴埋めにはもってこいだろう。もっと言うなら購入して手元に置いておくだけでも構わない。なにせ「本には読み時がある」のだから。

また『黒牢城』を手に取る際には、冒頭1ページの語り口に恐れをなして尻込みしないでほしいということは伝えて起きたい。ここは他よりあえて堅苦しく書かれた口上にすぎず、その他はこれほど難しくはないのである。

さぁもはや私から語るべきことは何もない。かくして皆様は今、しくもアニメによって直木賞受賞作を読む準備が整い、かつそれを自覚された非常に運の良い方々になられたのである。あとは実際に『黒牢城』を手に取って『小市民シリーズ』との類似性に震えるを残すのみだ。

ただし、村重と官兵衛がスイーツで楽しくお茶するシーンをご所望という場合には、ちょっと『黒牢城』ではご期待に添えかねる。そこだけはどうかご了承いただきたい。

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