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②バカビリーさんの、そばにある1曲

では2つ目の質問に行きましょう。バカビリーさんのそばにある1曲は何でしょう?と聞かれたら?
これはスッゲー難しいんだよね。(インタビュー前に)奥さんとも話してたの、そしたら“アナタの場合、(東日本の)震災前と震災後でそれぞれあるよね”って。
震災前は、やっぱりサイコビリー。イギリス発祥のジャンルだから、イギリスのメテオス、トーメント、クリューメンとかディメンテッド・アー・ゴーだったり、クリンゴンズもある。ドイツのマッド・シン、フランスのバナナ・メタリックだとか、アングラだけどワールドワイドで結構、あって。
ワールドワイドなサイコビリーということであれば、日本・東北から内郷げんこつ会も入りますよね?
内郷は…おふざけなところもありつつ、突き通しててなぁ…それこそ震災後にタイベックを着てライブするっていうブラックジョーク的な要素がカッケーな、って思った。アイツらだからこそ言えるし、やれる、アンチテーゼ的なところがね。

それこそアイツらが、俺をこんな人間に変えたからね。“俺たちは、国に見捨てられた”っていうワードを俺の後輩に泣きながら言ったんだよ、それがスタートなんだよね。
“国に見捨てられた”なんて、普通は言わんよ。でも能登でもさ、(支援先で)おばぁちゃんが“助けてください”って泣いてる。俺も泣きながらハグしたよ、“助けてください”なんて中々言えんよ。
“助けてください”って言葉としては難しくもないけど、本当に自分の生死に関わるようなことがないとまず言えないはず。どこぞの政治家にも聞かせてやりたい。
それを、90歳のおばぁちゃんが言うんよ。色んな所に行って色んな人に会うけど、“また来るね”とは言わない。期待させちゃうから。でもそのおばぁちゃんには“また来るよ”って言った。その言葉によって、ちょっとでも勇気づけられんじゃないかと思って。

2024年9月21日〜23日にかけて発生した水害
(令和6年9月能登半島豪雨)
大きな被害を受けた飲食店で
MONOEYESチームが泥出しをした時の1枚
能登市内を流れる河原田川から
100〜150メートル圏内の場所である
(輪島市河井町/9月後半)

では、震災後にバカビリーさんの側にある1曲とは?
タテタカコの「ねむるまち」とか、BRAHMAN「鼎の問」も然りだけど、俺は…(渡辺)俊美さんの「夜の森」かな。俺はあの曲を聴いてずっと泣いてた、だから俺はあの町(福島県双葉郡富岡町)に行ってみたいって思ったんだよね。
すごく美しい桜並木がある町ですね。
やっぱり…故郷を、俊美さんも離れて東京に出た人じゃない、それでTOKYO NO.1 SOUL SETをやったりさ。故郷がなくなるっていう思いってどうなんだろう…って、すごく考えた。この曲はずっと聴いてたなぁ。
俊美さんは(能登の震災後に)“いつか行くからな”って連絡をくれてて。それから能登の方にも1回、来てくれて一緒に箸の洗浄作業をやって。その後、金沢でライブをやって。

俊美さんとの接点というのは?
雷矢のyasuoさんが「握りこぶしのメロディー」っていうイベントをクラブカウンターアクション宮古(岩手県)でやったんよね(2013年3月16日)。yasuoさんがSNSで当時、この曲と俊美さんをプッシュしてたの。『としみはとしみ』(2012)っていうアルバムに入ってる曲を聴いてさ、福島の人って静かな、やさしい怒り…何て言うんだろうな、強い言葉ではない、静かな怒り。それを感じながら、俺も(当時)SNSで訴えてた。“この歌の意味が分かるか”って。
その「握りこぶしのメロディー」で、雷矢、柳家睦&THE RATBONES、げんこつ(=内郷げんこつ会)とかがいて、俊美さんがいて。そこで初めて会ったの。その時、“バカビリーってキミか、いつもありがとうね”って。接点ないのに“何で俺のこと知ってるんですか?”って聞いたら、“SNSで見てたよ。伝えてくれてありがとう”って。それが、俊美さんとの出会い。

バカビリーさんが東京を離れる時
柳家睦さん主催で開かれたサプライズパーティ
渡辺俊美さんもやって来てプレゼントされたギターは
富岡の実家にあったという1本を“バカビリーさんの子供に”と
放射線量が測定されていない大切な1本を
“託してもらった”と感じ
 バカビリーさんは東北のことを後世にまでちゃんと
伝えていく決意と覚悟を決めたと語った

今回、バカビリーさんが能登半島の支援活動に入られているお話が随所に出て来ています。ボランティアの方っていうのは今、バカビリーさんから見てどのぐらいいらしている感じでしょうか?
8割ぐらいは県外のボランティア…なんじゃないかな。特殊なことをやっている自分の現場での話ではあるけどね。でも会う人会う人、県外の人ばっかりでさ。県内の人間は何やってんだよ、って思われるのは悔しいから“遠くからありがとうございます”ってまず、俺は頭を下げる。こんな所に来てくれて、時間を作ってくれて、って。最初にその挨拶をした後はもう、くだらないことを言ったり賑やかしたり、時には真面目なことも言いながら涙して笑って、“ありがとう”ってボランティアを見送って帰す。それをずっと続けてる感じかな。
音楽にしても何にしてもやっぱり、楽しい要素があるから続けられるところがあるじゃない?任務とか特命になっちゃって、使命感になるとプレッシャーになっちゃう。俺がボランティアを続けられてるのは、色んな人と出会うし面白い人が多いからなのよ。ボランティアを続けられる人って良い意味で変人的な要素があるし(笑)、変わり者でいい人生を送ってる人たちがいっぱいいる。だから楽しいんだよ、それで達成感もあるし。
被災地で会って汗を流した人と例えば、ライブで会ったりすると“あの時は泥んこになってキツかったよね”なんて話をしたりしてさ。それってただ音楽だけの繋がりじゃない、人間としての繋がり。それはデカいよ。
やっぱり、すごい人も来ちゃうわけ。(ボランティア団体等と)コンタクトも取らず勝手に物を持ってきて、下手すりゃゴミみたいな物を置いてくこともあるし。
今もそんなことがありますかね?
発災直後の1月初頭に、布団を集めた時にあったよ。真空パックに入ってるから(いいだろう)、って家の布団を送ってくるとか。今年1月にG-FREAK FACTORYと安中ヘルメットプロジェクトのメンバーがホッカイロを持って来てくれた時に“ちょっとでも皆と一緒に作業したい”って、七尾市の集積場の仕分けをやったのね。その時も“こんな布団、送ってきてもアカンやろ”っていうのが3分の1ぐらいあったんじゃないかな。これはダメでしょうって思うような使い古しのガスコンロとかさ。
そういうのがより、負担になることを俺らは知ってるじゃない。(選別や処分等をする)ボランティアさんがいたから、色んなことを知ってるボランティアさんがいたからどうにかなったんだろうけども。

G-FREAK FACTORY・茂木さん(右から2番目)と
安中ヘルメットプロジェクト・メンバーと共に

東日本大震災の時にも、使えない物が送られて来て大変だったことも報道された記憶があるのですが…
そこまでのアンテナは(一般的に)多分…張ってない、張れてないと思う。例えば4、5年使ってないけど“これ使えるじゃん、送りゃあいい!何もないんだったらこれ使ってよ!”みたいな。でも、(使えても)ボロボロな物を貰った方にしてみたらさ…小っちゃい避難所でそれを貰ってさ。“私たちの場所はごみ集積場じゃない”とも言いたくなるさ。
そういうのを見て来てるからさ。避難所だって(1人当たり)2メートル四方ぐらいのスペースなのに…どうしたら良いか分からない物のために、場所が取られちゃってさ。
こうして話していくと不思議でしかないのは、こんなに民間がイニシアティヴを持ってやらないといけないのか。国はどう考えているんだろう、この現実を見ているのかと思ってしまう。
“能登は見捨てられた”って能登の男衆は結構ズバッと言うのよ。過疎化が進んでるし“20年後は必然的に能登に人がいなくなる”って問題視されていたことが、この地震で露呈したわけ。地方創生ってよく聞くけど、何だったんだろうね(笑)って思うよ。地方で山積していた問題がこれで隠しきれなくなった、じゃあどうする?っていう時に予算が遅いわけで。地震だけでなく、水害や台風、オールマイティに問題点をアップデートして47都道府県に伝えてない。だからこそ何か起こった土地で、まるで初めてのことのような顔をするわけじゃん。こんなに災害の国なんだから、だったらイタリアを見習ってボランティアにも給与制にするとかライセンス制にするとか、さ。(補足:国立国会図書館のデータにイタリアのボランティア制度等について記述がありましたのでこちらをご参照ください

輪島市町野町(まちのまち)にかかる橋

復興の支援活動をしていて、逆に良い話や面白い話もあればひとつ聞かせてください。
津波を喰らった能登町は津波に後に火災も起きたエリアがあって。火災っていうとどうしても輪島の方がトピックとして上がっちゃうけど、能登町の炊き出しに行った時。
避難所におじいちゃんがいたのね。“今日は何が食えるんだ?”“タコライスです”なんて会話をしてたの。そしたら若い女の子のボランティアさんが現調(=現地調査)に来てて、“こういう団体です、町の中を見せてください”って挨拶したら、そのおじいちゃんが握手を求めるわけよ。はじめましての握手で、もう両手を握って“ありがとね”ってさ(笑)。
その後、俺も現調で町の中を見に行きたいなと思ってたしそのおじいちゃんに握手しようとしたらさ、チッって舌打ちして“男かよ”って(一同笑)。そんで“やっぱ若い子の手は良いよね~”だって。でも俺は生命力を感じたよね、その後にそのおじいちゃんとはゲスい会話もしてさ。“生か死”って考えた時に…まぁ違う“性”かも知んないけど(一同笑)、でも俺は何となく分かるの。まだそういう活力があるんだ、生きる気力と活力をこのジジィは持ってんだ、って思って。
東日本大震災の後、三陸に行った時におじさん達と一緒にお酒を飲む機会があって(補足:「ひとのちから、まちのちから。」インタビューで色んな方が話題に出している復興食堂に参加した際です)、その時に“こんなの(=高橋ちえ)でも、いないよりいる方が良いな~”って言われて(一同笑)、よかったなぁって思ったんですよね。誤解しないで欲しいんですけど、やっぱり誰かと、人と一緒にいるっていうのは楽しいものだと思っておられるんだなと。
本当にそうそう、そう。それこそプレハブとかでスナックとかやれば良いのになって思ってたよ。県外のボランティアも皆、そこにお金を落とすだろうから大繁盛するぞって、柳家(睦)さんとも言ってた。
9月以降かな、ちょっとずつ、ちょっとずつね。開いてきた飲み屋さんもあるっちゃある。60代ぐらいまでの人たちは明るく前向きに、やるしかねぇみたいに割となってるけど、80代~90代になるとどうしても心が折れちゃう。前向きになれない人もやっぱり、たくさんいる。
能登町のDOYA COFFEEっていう所にこの前も行って来たんだけど、DJブースがあってさ。能登町は割と、自分たち世代の人もいるから若い力っていうのも感じられるし、少しでもね、こういうところが増えると良いなとは思うよね。

バカビリー/防災士】 石川県生まれ  
高校卒業と共に上京
 建築関係の仕事をしながらサイコビリーのDJとして活動する
 東日本大震災があって石川に戻り
建築の仕事と農業をしながら防災士の資格を取得
 2024年始に発災した能登半島地震の復興に尽力し続ける

 趣味はホラー映画を観ること
(奥様曰く“ボランティアじゃない?”)
好きな食べ物はスイカと回鍋肉と焼肉

【「③バカビリーさんが大切にしている言葉」に続く/11月22日更新予定】

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