グレずに済んだ訳。
日本の端っこ鹿児島県で生まれ、1980年代にティーンを過ごした自分。
父親はジゴロでヤクザ、彼が服役中に産みの母に捨てられ、小学校からは血の繋がらない育ての母と極貧の二人暮らし。
そこから立身出世したとは言えないが、特待生として学習塾に無償で通い、高校は県で一番の進学校に合格し、新聞奨学生として自活しながら一浪して早稲田大学に入った。
事情を知っている人からは言われる。「よくグレなかったねえ。」と。
確かに、中学時代に周りに感化されてヤンキーの道に進み、やさぐれた生活をし、今でも鹿児島に住んでいるかもしれなかったと考えると、大いにありえたなと思う。
今やワイルドライフとは縁遠い、軟弱も軟弱のサブカルこじらせおじさんになってしまったが、どうしてこうなってしまったのか。
我が半生を振り返ってみると、その理由として思い当たるエピソードがいくつか浮かぶ。
幼稚園時代に親戚の家に預けられていた頃は、なかなかの虐待にあっていたし、体罰の一環として腕立て伏せや腹筋やランニングなどを課されていたこともあって、いつの間にか体力がついていたようだ。小学校に上がる前までは、鹿児島でもさらに山奥の祖父母の家に住んでいて、野山を駆け回っていた。
小学校に上がる時に鹿児島市内に住むようになるのだが、「小学校デビュー」ではないけども、なぜか気負っていたところもあり、本宮ひろ志漫画の影響を大きく受けていたこともあって、ちょっと喧嘩上等みたいなところもあった。
小学二年生の時の通信簿で体育が5だったことが今では信じられないが、後にも先にも活発だったのはこの頃まで。
小二の時、担任の先生が足を骨折するというハプニングがあり、なぜか2学期から隣のクラスと合流して授業を受けるということになった。
別に喧嘩をふっかけて回ってるわけじゃなかったけど、「この隣のクラスじゃ誰が強いんだ?」みたいな態度で、腕試ししてみたいぐらいの勢いがまだあった。
昼休みによくプロレスごっこと称して取っ組み合いをしていたガキどもだったんだが、そのうちの一人に「まこっちゃん」という、もうその当時身長が150cm以上あったんじゃないかな…色黒で手足の長いのっぽの子がいた。
自分はチビだけど負けん気が強い身の程知らずだったんだが、この「まこっちゃん」にプロレスごっこで挑む度に、逆エビ固めを決められて「痛い痛い、やめてやめて。ギブギブ!」と泣くまでほどいてくれなくて、チンチンにやられた。
それですっかり自信を失った。「あー、オレ、全然腕っ節強くなんかないじゃん。もう、イキがるのはやめよう。」と。
翌年、小学三年になったある朝、顔を洗う時にどうも右目が白くかすんで見えづらくなっていることに気付く。
眼科で診てもらったら、黒目の部分に何かで引っ掻いたような傷が付いてしまっているらしい。
原因を探ってみると、おもちゃか何か入っていたダンボール箱を開ける時に、当時のダンボール箱を止めていたでっかいホチキスの針のような留め金具が付いたままで、それで目を傷つけてしまったらしい。
右目だけ視力が0.1になってしまったので、遠近感も掴みづらくなってしまい、そこから運動もまるでダメになってしまった。
絵を描くのが好きだったので、休み時間はノートにマンガ絵を描いたり、昼休みは理科室の前で日向ぼっこしながら、「『奇面組』のキャラクターの名前をどれだけ覚えているか言い合う」というような地味な遊びばかりするようになった。
そこから文化系まっしぐら。球技は何をやらせても下手で、体育祭やクラスマッチなどで活躍することなんて全くない。必然的に女子にはモテないのだった。
中学生ぐらいになって、なぜみんなヤンキー化していくかというと、たいがいはモテたくて、カッコつけたくてああなっていくんだよね。当時のファッションを見ると、あれがカッコよかったなんて今ではとても信じられないけど。
やっぱりまずはファッションからなのよ。となると、どうなるか。
貧乏過ぎて、服が買えなかった。だから格好だけでも不良っぽくするところから始める、そのスタートラインにすら立てなかったわけだ。
その頃のヤンキーはなぜか黒い詰襟の学生服をカスタマイズすることに命をかけていたようなところがあって、裏地に刺繍が入っていたり、裏ボタンが意味なく梵字になっていたり、ズボンがボンタンになっていたり、タックがたくさん入っているほどいい…といった、「どうでもいいだろ!」というようなところに凝っているヤツがイケているという風潮があった。
一度だけうちのジゴロでヤクザな親父が、知り合いの店から学生服のズボンを買ってきてくれたことがあったのだが、「こんなん穿いて登校したら、すぐに不良に目つけられて体育館裏に引っ張られるわ!」とドン引きするほどのボンタンを渡されたことがあった。…そういう審美眼はヤンキーの方々って奇妙に一致するんだよな。
なので、不良になるにも金がかかる、というのが結論。
いち早くヤンキーになるのは、大抵はちょっと裕福な家庭の子たちで、兄や姉といった身近な年上の存在の影響を受け、目立つ格好をしてモテようとする連中だった。
自分は中学上がった時は、145cn用の学生服がブカブカだったぐらいのチビで、丸坊主で、右目だけ大きくなる(ケント・デリカットのように)ぶ厚いレンズのメガネをかけたちんちくりんだったので、いくらヤクザの息子だといっても、そういう不良少年たちからは全くお誘いの声がかからなかったのだった。
中2の時、カツアゲにあったことがある。
友人のマエボーと天文館のアーケード商店街を抜けたあたりを歩いていた時、ふっと横を見るとマエボーがいない。あれ?と思って、後ろを振り返ると、数メートル後方でマエボーが見知らぬ誰かに呼び止められていた。
学ランを着てたので自分たちと同じ中学生のようだったが、「マエボーがよその中学の知り合いにでも会ったのかな?」と思って、自分もそこに近づいて行った。
近くまで行って、「あ、これ、知り合いと会ったんじゃなくて、絡まれてるんだ。」と気付いた時にはもう遅い。
マエボーに凄んでいた、背が低いけど目つきの悪いそいつが、後からのこのこ近寄って来た自分に向かっても「おまえら、どこ中や?」とカマしてきた。
その時は「ゆっても、2対1だし、まだ…。」と、あまり危機感を覚えていなかったのだが、「いや、◯◯中だけど…。」と自分が返事した途端に、背中の方に手を回して、「◯◯中が、なんぼのもんじゃ、コラ!」と、伸びる警棒をシャキーンと取り出した。
あわわわ…とたじろいだその隙に、そいつは自分のズボンのポケットに手を突っ込んで、たまたまその時持っていたなけなしの千円札をサッと奪い取ってしまった。
「この辺でウロウロすんなよ。行け!」みたいなことを言われて、何の抵抗もできずにスゴスゴと引き下がってきた時、「あ、オレってビビリだったんだなあ。」と実感したのだった。
なんかそんなこともあって、中学生の間に、自分の中に「グレる」という選択肢はすっかり無くなったのだった。
背が低くて、人より成長が遅かった自分は、幸か不幸か性の目覚めも周りの男子に比べると遅かったような気がする。
「モテたい!」という欲求に、あまり振り回されることなく、女子の前で無理してイキがろうとすることが少なくて済んだかもしれない。
あと、「モテたい」と思っても、そのためにどうすればいいかと具体的な行動に結び付かず、いつもあだち充の漫画の世界のような妄想を抱いていて、そっちに現実逃避していたのも大きかったような気がする。
いやあ、ローティーンの頃の危うさって、今思い出してもヒヤヒヤしますね。