お世話になった方達(南米放浪記⑪)
今年50歳になろうという自分が、27〜28年前の南米旅行のことを、うろ覚えのまま書き綴っているわけだが。
当時、こまめに日誌を付けていたわけでもなく、出会った人の連絡先を大切にして、帰国してからも連絡を取り合っている…というようなこともない。
小さなアドレス帳に、紹介してもらった伝手の情報をその都度書き込んでいたはずなのだが、水に濡らしてしまい、ほとんどが読めなくなった…これが痛恨の極み。
結局、帰国してから各々に御礼状の一通も出さず、当時日本から手土産を持っていったわけでもなく、何と恩知らずであったかと、30年近く経った今更我が身を恥じる。
1993年に日本から身一つで夜逃げのようにブラジルまで渡って来た、何者でもない若者に親切にしてくださった方々(そのほとんどが名前すら思い出せない)に、今一度感謝の念を起こしたい。
自分が南米に渡った1993年に、携帯電話もなく、電子メールも普及しておらず、デジタルカメラも持っていなかったというのが、記録を残せなかった理由として大きい。
印象的なエピソードだけをなんとか思い出して書こうとしているのだが、日付や人名を失念してしまっているので、あやふやなままで「何か知らんけど、こんなこともあったなあ。」としか語れないのが、今になって歯がゆくもある。
まあ、でも仕方ない。それぐらい昔の話だということだ。
(上写真は「東洋経済 ON LINE」の記事より)
ブラジルで最初に滞在したのが、サンパウロのリベルダージという日本人街。
サンパウロ新聞社という日系人のための日本語新聞を発行している会社の本社ビル内で寝泊まりさせてもらい、入国直後の数日と再入国してバイーアに向かう前の数日、バイーアから戻ってきて帰国するまでの数日、なにかとここを拠点にさせてもらった。
日本学生海外移住連盟の体験実習生として、その年にサンパウロ新聞に勤務していたサイトーさんの部屋に居候させてもらい、彼に紹介された人たちも、その後旅行を続けるうえでいろんな伝手を頼る起点となった。
たしか「ケンイチさん」とか下の名前で呼ばれていた、その頃28歳ぐらいの優しそうな日系人の記者の方が、サイトーさんとも一緒に仕事をしていたようで、サンパウロの市街地を案内してもらったりした。
また瑣末な事だが、その「ケンイチさん(仮名)」について憶えていることと言えば、その彼はR&Bやブルースなどを好んで聞いていたようで、自分がその頃よく聴いていた音楽について話が及んだ時、「うーん…キュアー(The Cure)はちょっと子供っぽいと思いますケド。」とやんわり否定された、その時の笑顔の感じだ。少しだけ年上のはずなのに、大人の教養のようなものを感じて羨ましく思ったものだ。
サンパウロ新聞社では、同じように社内の一室で寝泊まりしている、少し変わり者のベテラン記者の方とも出会った。バイーア地方の歴史や文化などについて長年研究しているという人だったので(名前を忘却)、その方の部屋を訪ねていろんな話を聞かせてもらった。
西川のりお師匠に顔がよく似てギョロリとした眼光鋭く、強面で堅物そうなベテラン記者の部屋の壁にはブラジル全土の大きな地図が貼ってあり、書棚に収まりきらない本や資料がそこらに山積みにされていた。当時50歳を超えているであったろう「のりおさん(仮名)」は独身を貫いているらしく、研究者気質で我が道を行く生き方をされているようだった。
「いいか、バイーアという所は同じブラジルといっても他の地方とはまったく違う風土と文化があってだな…。」と低い声で語り出すと止まらず、16世紀に首都だった時代から遡って、延々と講義を聞かされたのだった。
でも、「サルバドールに友人が住んでいるから。」と紹介状を書いてくれて、大変ありがたかった。
お会いしたのはその一度きりだったけど、紹介していただいたサルバドール在住の「カワカミさん(この方の名前もうろ覚え)」一家には大変お世話になった。
この旅の最大の目的は「サルバドールでカーニバルを体験して帰ること」だったので、カワカミさん一家を紹介していただけなかったら、残りわずかとなった手持ちの金でホテル滞在など無理な話だったし、途方に暮れてしまうところだった。
年頃の娘さんがいる家に、見ず知らずの若い男が急に寝泊まりさせてくれなんて図々しい話だったが、快く受け入れてくださった親切なご家族に今更ながら感謝申し上げたい。
一旦ブラジル国外に出て、パラグアイとボリビアを渡り歩いたのは、6ヶ月で切れる観光ビザを再延長するための苦肉の策だったが、その間にパラグアイでお世話になったA田牧師とそのご家族、ボリビア・サンタクルスでご厄介になったタマシロさん一家のほかにも、彼の地に日系社会を築いていらっしゃった多くの移民の方々は、みな行く先々でとても親切にしてくださった。
広大な農地で作業を手伝った時は馬に乗せてもらったり、テレビも無く夜は真っ暗な簡素な小屋で世捨て人のような生活をされている方のところでは、ただただ古い日本の雑誌を読んで数日過ごしたりと、貴重な体験をするたびに、日本から遠く離れた地にいることの不思議さを噛みしめた。
数日、サンパウロに滞在した時は、東洋人街のリベルダーヂで旅行代理店を営んでおられる「アルファインテル」の佐藤社長にも大変お世話になった。
ブラジルの治安があまり良くないと聞いていたせいで、旅の資金をほとんどトラベラーズチェックに換えて持っていってしまい、現金の持ち合わせが少なかったのだが、事情を聞いた佐藤社長はすぐにその場で現金化してくださった。
「学移連のOB」だからという、ただそれだけの縁で頼って来た初対面の自分に、紹介文を裏書きした名刺を何枚もくださり、その人脈にはとても助けられた。
もっと多くの方々にいろいろお世話になったはずなのに、恩知らずの自分はそのほとんどを忘れてしまっている。
約半年暮らしたマセイオの街で面倒をみてくださった、一番の恩人T氏が数年前に亡くなられていたことを知ったのも、つい最近のことだ。
Google Earthで探してみたら、当時T氏が経営されていたリゾートホテルも無くなっていた。ストリートビューで見覚えのある路地の画像を見たら、かろうじてかつての建物の入り口の門が残っていて、切なくなった。
あの南米旅行がその後の自分の人生にどれぐらい影響を与えているのかは、よくわからない。
あれで人生がガラッと変わったとも言えるし、だからといってあの経験をしっかり生かしているかというと全然そんなこともない。
ただ、なんとか50年サバイヴしてきた。その自分の歩みを振り返ると、いろんな人に関わってもらって、ここまで来たのだなあと、少ししみじみするだけだ。
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