家出の話〜ばあちゃんちまで歩いて行く〜
国道3号線沿いの安アパート、17歳の時に出来てしまった息子を「育ての母親」の元に置いて放ったらかしのまま、ジゴロでヤクザな親父は他のオンナのところに転がり込んでいる。
その放ったらかしにされた自分は、育ての母と折り合いが悪い。
陰湿な性格の育ての母は、貧しい暮らしに対する不満を、結果的に世話を押し付けられた格好になった「『男』の連れ子」である自分にぶつけ、嫌味を言い、罵倒し続けた。自分が反抗的な態度を取ろうものなら手も上げた。
厳しい躾けのつもりで、家事の手伝いなどの用事を言いつけ、気に入らないところがあるとやり直させ、質素な食事の際には箸の上げ下ろしや咀嚼音にまで文句をつける。
小学校に上がる前に初めて顔を合わせ、「これから私を『お母さん』と呼びなさい。」と言われて、生活を共にし始めてから、探り探り築いていった関係性の中で、一方的に自分に不自由を強いるこの大人のことがどうしても好きになれず、10代の頃の自分は家庭では常に鬱屈していた。
小学校低学年の頃は、なじられいびられても泣きわめくことでしか抵抗できなかったが、自意識が確立していくにつれて、「こんな生活は嫌だ。」「こんな理不尽な思いをさせられるいわれはない。」と強く思うようになっていく。
小4ぐらいの頃のとある日曜日だったと思う。その日も朝から険悪な雰囲気。
何が原因だったのかは覚えていないけれど、朝っぱらから出鼻を挫かれるというか、その日の気分をいきなり台無しにされるようなことは頻繁にあった。きっと細かいことをいちいち注意され、揚げ足を取られ、いつもの愚痴や嫌味を言われたのだろう。
うんざりした自分が育ての母に対して何か反抗的な態度を取ったのだろう。立ち上がって正面から睨みつけるぐらいのことは、この頃ならやっていたかもしれない。
「なんね、その態度は!」と向こうも頭に血がのぼる。「おまえなんか出て行け!」と自分に向かって怒鳴る。
その時いつもと違ったのは「ああ、出て行ってやらあ!」と衝動的に家を飛び出したこと。
着の身着のまま手ぶらで家を出て、怒りに身を震わせながら、足早に歩き続けた。
「冗談じゃない。こっちも好き好んで、あんなところで暮らしてるんじゃない。育ててくれなんて、こっちは頼んじゃいない。出て行けだって?…上等だよ。二度と帰るもんか!」…というような思いが頭の中をぐるぐる駆け巡った。
気が付いたら、いつもの通学路をひた歩き、通っていた小学校の近くまで進んでいた。
咄嗟に家を飛び出てしまったので、つい体が覚えている方向に歩き出してしまっていたのだ。
住んでいたアパートの目の前を通る国道3号線を北に向かって1キロ半くらい進んだところに通っていた小学校があったが、日曜日の午前中に学校に行ってもどうしようもない。
その時、ふと思い付いた。「たしかこの道をこのままずーっと行ったら、田舎の婆ちゃんの家に着くな。」
たまに思い出したようにアパートに帰ってくる、自分の親父の車に乗せられて、時々婆ちゃんの家(…親父にとっては実家だ)まで連れて行かれることがあった。特に盆や正月でなくても、なんとなく親の顔を見に帰っているのか、孫の顔を見せに行っているのか、理由はともかく半年に一度くらいの間隔だっただろうか。その時に通るルートをだいたい記憶していた。
「これ学校を通り過ぎて、さらに先まで歩いていったら、多分あの辺に出て、そこから確か右に折れて山道を登っていくんだったな。」と、歩きながら思い出していったんだと思う。
その育ての母親と暮らす前には、1年ぐらい婆ちゃんちに預けられていたから(うちの親父が出所してくる前まで)、近くまで行けばなんとなく道はわかるだろう。
婆ちゃんの家は、鹿児島市でもより北側の辺鄙な山奥の集落の中にある。その山の麓にバス停があって、そこを一日に朝と夕の2本だけ市の中心に向かうバスが通る。そのことも思い出した。
「バス停を頼りに歩いていけば、婆ちゃんちに着くんじゃないだろうか。」
そんなことを考えながら歩いているうちに、なぜかチャレンジ精神みたいなものに火が点いた。
「よし、歩いて婆ちゃんちまで行ってみよう!」…もうその頃には、自分が二度と帰らないつもりで家出してきたことは忘れて、ちょっとした遠足気分になっていた。
今になって思い返し、グーグルマップで調べてみると、結果15kmぐらいの道のりだったことがわかる。
その後、山が切り開かれて団地ができていたりして、今ならもっと短い直線距離で行けることもわかった。
散歩で10kmぐらい平気で歩く日常の今の自分から見たら、大した距離じゃなかったんだな…とも思う。
しかし、その当時、市街地からどんどん遠ざかり、河川の上流の方へと山を迂回するように進み、山林の中を通る細い道を登って行く15kmである。小4の子どもの足で。
途中、山道を登り始めてからはさすがに不安になっていた。「この道で合っているのかな?」「こんなに延々と登り道が続いていたっけな。」「全然知っている道に出ないけど、大丈夫かな。」
なにしろ、いつもは車で通るだけの道で、そういえばここを歩いている人なんか見たことなかった。とにかくカーブが多い山道だから、同じところをぐるぐる回っている気分にもなってきて、どんどん心細くなっていったことを憶えている。
結局半日かかって日も暮れる頃に、見憶えのある婆ちゃんの家に辿り着き、たまたま畑仕事から戻ってきた婆ちゃんと道端で出くわした。
「ばあちゃん!」
「あれ〜?……今日、来るって言ってたかね。パパは?」
「いや、一人で来たよ。」
「ええ〜!?…どうやってね。バスね?」
「いや、歩いて来たよ。」
「どっからぁ?」
…というような会話がなされたと思う。そいで「ようわからんけど、とにかくあがりなさい。」みたいなことで、婆ちゃんの家に入る。
その当時は、婆ちゃんちに、自分の親父の弟(…伯父さんにあたるが、その頃まだ20代?…「兄ちゃん」と呼んでいた)の夫妻も同居していて、その嫁さんが自分が歩いて来たと聞いてビックリ。
いろいろ質問されて答えているうちに、「いや…『出て行け!』って言われたから出て来たんだけど、どこに行けばいいかわからなくて、とりあえず歩いているうちに婆ちゃん家に向かう道を思い出して、ここまで来ちゃった。」というようなことを話したのだった。
そしたら、その親父の弟の嫁さんがボロボロ泣き出して、「もうそんな辛い思いして暮らしてるなら、うちの子になるね?」と言ってくれた。
確かにあの家を飛び出した時は、「もう二度と帰るもんか!」と思っていたのだけれど、歩いているうちに途中から「歩いて婆ちゃん家まで行けるかやってみようのコーナー」にチャレンジして、ちょっと楽しくなっている自分がいたので、正直その時はやり遂げた感でいっぱいになっていて、ひどく同情されているのが、なんだか申し訳ないような気持ちになっていた。
夜になり辺りも暗くなってきたので、「とりあえずうちに泊まりなさい。明日学校はどうするね。(育ての母親にも)連絡をしとかんとね。」という話をしていた時、これが本当にたまたま…うちの親父が実家に顔出しに来たのだった。
ホステスやらせて食わせてもらっていたオンナの飼い猫を預けに来たかなんか…そんな理由で、婆ちゃん家の玄関をガラガラっと開けて、「おふくろ、おるか〜?」と、うちの親父が土間から上がって来た。
そこで自分を見つけて、目が点になる親父。
「おっ…、何でおっとよ?(どうしてここにいるんだ?)」
そこから婆ちゃんと弟の嫁さんから事情を聞かされて、えらく驚いた親父。
「あっこから歩いて来たとや。ここまで?」
それからいろいろなやり取りがあって、とりあえず元のアパートまで、うちの親父と一緒に帰ることになった。
実家から、自分の育ての母に電話をかけた親父は「オマエが出て行けっちゅったで、コイツは一人で歩いて田舎まで来とるやろが〜!」とえらい剣幕だったが、帰りの車の中では妙に自分に優しかった。
子どもが一人で山道をとぼとぼ歩いて来たというのが、よほど同情心を誘うらしい。
車の中で「ま、オマエもいろいろ不満に思うところはあるだろうが、アイツ(育ての母親)も苦労してオマエを育ててくれてるんだから、我慢しないといかんのやぞ。」みたいなことを諭すように言っていた親父。
今考えるとおかしな話でね。「いや、誰がどの口で言うてんねん!」とツッコミたくなるところだけども。そもそも親父が自分を他人の女に預けたまま放ったらかしにして、生活費も入れないからこんな状況になってるんだけど。まあ、当時の自分がそんな事言えるはずもなく。
元のアパートに帰り着くなり、育ての母を殴りつける親父。
「ごめんなさい、ごめんなさい。まさかこんなことになるとは…。」と泣きながら謝る育ての母。
育ての母がうちの親父に殴られるところはそれまでに何度も見ていて、女性が暴力を振るわれているところを見たくないという気持ちはもちろんあれど、実は「親父は自分の味方をしてくれている!」という嬉しい気持ちも入り混じっていたりしたものだった。
それでもその時は、育ての母親に同情せざるを得なかった。
「まさかこんなことになるとは…。」って、そうだろうね。まさか自分でも婆ちゃんの家まで歩いて行くなんて思ってもいなかったからね。
しかも、ちょっとしたダンジョンを半日かけてクリアして、充実感を得ただなんて…申し訳なくて、とても言い出せないのであった。
当時歩いた道を思い出しながら、グーグルマップのストリートビューで辿ってみた。
40年も前のことだから、当然道も建物も景色も変わっている…はずなんだが、田舎町だからなのか、意外と今でも当時と同じ姿で残っているところもあったりして。
この「大田パン」の工場は、地元小学生が社会科見学に行く所。当時と同じ場所にまだあるようだ。
↓
甲突川を上流のほうに向かって歩いていくと、右手に見えたドライブイン。
40年前もあったけど、今も営業してるのかな?
↓
これは家具屋だ。「にいな」家具。オレンジで目立つ建物だったから、このダンジョンの時、とてもいい目印になった。
↓
ここまでで7〜8km進んでいる。この辺で右に曲がって山道を登って行くことになるんだが、この辺でよかったのかどうか不安に思ったターニングポイント。
↓
左手にあるセメント会社は、じいちゃん(自分の祖父)が定年まで勤めた会社だ。ここがあるってことは、道はどうやら合っているらしい。
↓
このバス停の名前は聞き覚えがあって、ここまでで来ればだいたいあと半分という距離感。
↓
だんだん山を分け入って行き、道も細くなってくる。
もう歩道と車道の区別もなく、周辺の住人以外は歩いている人など見かけなくなってくる。
↓
もう普通に森の奥深くへと吸い込まれていくようだった。
つくづく思うのは、「たまたま、あの日モメて家を飛び出したのが、まだ午前中で良かったな!」ということだ(笑)。
こんなとこを歩いているうちに日が落ちたら、ほんとに真っ暗で、絶対に婆ちゃん家まで辿り着けてなかった。