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L⇔Rに会釈した話。

1990年に鹿児島から上京してきた自分にとって、いわゆる「渋谷系」の音楽が与えた影響はものすごく大きい。

朝と夕に新聞配達をして、四畳半風呂なしトイレ共同のアパートで貧乏暮らしだったから、都会に来たといってもお洒落な服にお金はかけられず、街にナンパに出ることもなく、夜にクラブに踊りに行くこともなかったので、最先端の流行とはほぼ無縁な生活だった。

でも、耳だけは東京にすぐ染まった。音楽のチョイスがアティチュードを決定づけ、貧しくても都会的なライフスタイルを謳歌しているような気になれた。

実際は鹿児島から「薄っぺらのボストンバック」抱えて「北へ北へ向かった」クチなんだが、「当然長渕好きなんでしょ。」と思われたくなかったし、地元では高校の文化祭でバンドをやるとなると、ブルーハーツかボウイの二択しかなかったので、そもそも音楽の流行が東京と比べてだいぶ周回遅れだった。

新聞販売所で同期の〝イッシさん〟は年齢は2つか3つ上で長野の人だったが、それでも鹿児島の高校生よりは音楽の趣味が断然良くて。自分が「イッシさんはどんな音楽が好きなんですか?」と聞いて「スミスって知ってる?」と返ってきた時、自分は自信満々に「ああ、エアロスミスっすよね。自分もわりと好きっす!」と答えたのだった。

「違うよ。イギリスのバンドでザ・スミスってがいるんだよ。」と教えてもらい、そこからスミス/モリッシーにはまって、UKのギターバンドを聴きあさるようになった。

同じく新聞奨学生の〝シャチョー〟も、アズテック・カメラの「ハイ・ランド、ハード・レイン」を生涯の一枚に挙げるほどで、スピッツを見つけてきたのも彼。ネオ・アコを原点に、グッド・メロディに対する審美眼は揺らぐことがない。

この流れで、フリッパーズ・ギターを避けて通れるわけがなかった。

やはり、最初に「恋とマシンガン」を聴いた時の衝撃。

「こ、こんなにオシャレな音楽があるんや〜。さすが東京や〜。」と四畳半の畳の上で転げ回った。

今まで聴いていた尾崎豊やアルフィーのカセットを全部窓から放り投げてしまいたい衝動に駆られた。

それまでレコード会社がどこだとか意識したこともなかったが、レーベル買いという楽しみを覚えたのもその頃から。

ザ・スミスやアズテック・カメラが好きならラフ・トレード(Rough Trade Records )の他のバンドを買ってみようとか。

フリッパーズの元ネタを探して、「オレンジ・ジュース」や「モノクローム・セット」にたどり着くとか。

当時は雑誌も「ロッキング・オン」は毎月、「クロス・ビート」もたまに買っていて、新譜の情報にもくまなく目を走らせていた。

毎日のようにレコファンやディスクマップなどの中古盤屋をめぐり、僅かな給料を飲み食い以外ではほぼレコードと本に遣った。

西新宿の海賊盤屋に、ライブ盤やVHSを探しにまで行っていたなあ。


L⇔R(エルアール)は、フリッパーズと同じポリスターからミニアルバムを出した新人バンドということで知ったのではないかな。その「L」も名曲揃いでフルアルバムに期待していた。

そしてフリッパーズ監修の「FAB GEAR」というコンピレーションに、カヒミ・カリィとのユニットで「恋はイエイエ」を歌っていた嶺川貴子が加入したということで、「これはいよいよブレイクするな!」と思っていた。

そんな時、池袋にまだWAVEのビルがあった頃、ファーストフルアルバム発売記念のストアイベントがあったのだった。自分とシャチョーはそれに参加して、サイン入りのポストカードをもらって帰って来た記憶がある。

だから、ポニーキャニオンに移籍して「KNOCKIN' ON YOUR DOOR」がドラマの主題歌としてヒットし本格的にブレイクした時にも、スピッツと同様、昔から応援していたバンドが一躍有名になったということで感慨深いものがあったのだ。

そのL⇔Rブレイク直後の95年8月には、Oasis(オエイシス)の来日公演が恵比寿ガーデンホールであった。

2ndアルバムの「モーニング・グローリー」をリリースする前だから、こちらもまさにブレイク前夜。

「こんな中規模のハコでオアシス観れるのはきっとこの機会が最後だ!」と思って興奮気味で恵比寿に向かった。

オアシスは1stシングルの「Supersonic」のMVを深夜の「Beat UK」で観た瞬間に「これはどえらいバンドが出て来た!」と衝撃を受けて、そこからずっと追いかけていたから、ライブも最初から最後まで大合唱で大いに盛り上がったのだった。

ライブが終わって大満足でロビーに出て来たら、丸テーブルに肘をついてドリンクを飲みながら談笑している男性3人組を見つけた。

「THE BEATLES」とデッカいロゴが入ったTシャツを着てたので、「わかりやすっ!」と思って半笑いで様子を見ていたら、その3人となぜか目が合った。

それがL⇔Rの3人だったのだ。

目が合ったもんだから、なぜかその時自分は無意識にペコッと会釈してしまったのだが、彼らはチラッと一瞥をくれたが別に知り合いでもないので当然無視。

それを見ていたシャチョーとイッシさんが大爆笑。

「何、会釈してるんですか!」「向こうは『誰だ、こいつ?』って顔してましたよ!」

「いやあ…。」思わず自分も苦笑い。

デビューの時に直接会って握手とかしてるし、なんか昔からの知り合いのような気がして、反射的に「どうも。」ってやっちゃいましたわ。

今となっては(こちらの一方的な)いい思い出です。

L⇔Rが解散した後も、黒沢兄がスピッツの田村、石田ショーキチと組んだ「MOTORWORKS」のライブにも行った。いずれまたシンガーとして表舞台に復帰する日が来るだろうと信じていたのだが。

残念ながら黒沢健一氏は2016年に48歳の若さで亡くなってしまい、L⇔Rが再結成することも叶わなくなった。

自分はもうその彼が亡くなった年齢も越えてしまった。

ふと自分の半生を振り返った時、個人的な様々な思い出がよみがえるたびに、特に90年代の音楽はその記憶としっかり結びついている。そのことをあらためて思い知った。


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