音楽としての記憶#7
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阪神淡路大震災
1995年。
この年は未曾有の大震災から始まった。
1月17日早朝、当時住んでいた京都・西京極のマンションを大きな横揺れが襲い飛び起きる。
しばらく様子を伺うも次の揺れは来なかったのでそのまま爆睡し、お昼過ぎに起きてテレビをつけると、神戸の街に火の手があがり燃えている映像が飛び込んできた。
まさか早朝に起きたあの地震がこんなことになっていたとは信じられない気持ちで、血の気が引いていくのを感じた。
すぐ近くの京都にいて何かできることがないのか焦る気持ちが募っていくなかで、
ニューエストモデル時代から好きだったソウルフラワーユニオンが被災者を励ますため、ソウルフラワーモノノケサミット名義による出前慰問ライブを開始したことを知る。
電気のない被災地で演奏するために、三線、チンドン太鼓、アコーディオンなど電気を必要としない楽器だけを用いての演奏だった。
同時に震災基金も立ち上げていたので、僅かながら義援金を送った。
その時に自分ができることをやる。
考え過ぎて頭でっかちで動けなくなるときほど、このシンプルな姿勢に立ち戻ることを彼らから学ぶ。
映像は釜ヶ崎でのものだが、冬の神戸市役所前で聴いたモノノケサミットの「満月の夕」とあの日の光景も
一生忘れることのできない音楽の記憶だ。
そしてパーティが始まる
翌96年になると、京都東山の祇園近くにあった「コンテナ」で、初めて自分の主催したパーティで人前でDJをやった。まだまだレコードも足りず、DJするたびに
「(物質的にも精神的にも)自分に足りないもの探し」の連続だった。
その数年後には京都で出会った仲間と「HOUSE FORCE」というパーティを始動。
HOUSE FORCEは最初どこの箱からスタートしたのかあやふやになっているが、木屋町にあったライブハウス「EAST」、レコ屋riversideと同じビルに移転後の「活力屋」、大阪味園ビル1階のアジアンカオス「united underground 鶴の間」と面白そうな場所を転々とし開催していた。
みんなアクの強いcrewだったので毎回パーティの舵取り/着地に難儀したが、
フライヤー作りからデコレーション、照明までこだわりを持って取り組んだ。
自分も含め、いい意味で変な人ばかりが集うパーティだったな。
時を経て2024年7月。
現在の居住地・沖縄でのパーティで、京都の女の子と一緒になる機会があったのだが、
開口一番「私、HOUSE FORCEよく遊びに行ってました!」と言われ、
歳月を軽く飛び越えてやって来る音楽のご縁に驚き、嬉しかった。
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