音楽としての記憶#5
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包囲網を突破せよ
いよいよ高校卒業後の進路を決める季節になり、輝ける未来のため「一人暮らし」を絶対実現させなくちゃいけなかった私は、父親から前もって二つの条件を出されていた。
大学/短大に進学するのであれば一人暮らしを認める(専門学校は認めない)
進学は「西は神戸までの近畿圏内」「東は名古屋までの東海圏内」に限る
今でこそ歳をとって丸くなった父だが、当時は昭和の堅物オヤジだったので既に包囲網が敷かれた状態だった。
CUTiE×岡崎京子の影響もあり(本当は東京の文化服装学院に行ってみたいな〜)と淡い夢を抱いていたが父の条件にかすりもしなかったので、
サボり魔だった私の内申点でもスリ抜けれそうな大阪と京都の短大をとりあえず受験し、無事どちらも合格することができた。輝ける未来が約束された瞬間だった。
あとは「大阪・京都」どっちの短大に行くか迷ったが、普段からよく遊びに行ってた贔屓の大阪を差し置いて、当時ほぼ未踏の地だった京都を選んだ決め手になったのは、ただ単に京都の短大が繁華街にあったこと。
何よりも「すぐ街へ遊びに行ける距離」が優先事項だったのだ。
指南書は「るるぶの夜遊びガイド」
1993年。
厳しかった親の目と退屈な田舎から逃れ、まずは人生の第一目標であった一人暮らしを実現させタカが外れた私は、髪を金髪にして鼻にピアスを開けた。
次に近所のコンビニで目に止まった、るるぶの夜遊びガイドを購入。
インターネットどころか携帯電話も無い時代だったから、情報源となるのは紙媒体か生身の人間だけ。
まだ京都に友達がいなかったので、夜遊びガイドを端から端まで穴が空くほど眺めては、週末になると独りでBARとクラブを巡る日々を楽しんだ。
よく行ってたのは木屋町のRUB A DUB、Flower、Fish&Chipsで
中でもツンちゃんが店長をしていたFish&Chipsは、お洒落で奇抜な若者がたくさん集っていて居心地がよく、音楽もUK寄りなところが気に入って通いつめるようになる。
いつも独りでFishに通ってた私に声をかけてくれる友達もでき、新京極にあったサイケな古着屋ゴーフィートでバイトも始めた。
この古着屋ゴーフィートで同じバイトの女の子がお店のBGMにかけてて大好きになったのがニューエストモデル「CROSSBREED PARK」で、十代後半に聴き込んだ思い出深き一枚。
ニューエストモデルとは1995年に起きた阪神淡路大震災を機に、
音楽だけに留まらず私の人生においてその生き方を問われるような深い影響を受けるバンドになるのだが、この時のことはまた後で書こうと思う。
見つけた居場所
ある日、Fish&Chipsで知り合った友達に「面白いとこがあるから」と連れて行かれたのが、(現在に至るまでの)クラブカルチャーの洗礼を受けることになる「mushroom」だった。
mushroomは八坂神社の向かいにある祇園会館にあり、同じビルにはバブルの遺産マハラジャも入っていたので、エレベーターに乗り込むとワンレンにボディコンのお姉さまがたと相乗りになることがよくあった。
同じビルの中に時代の対極にある音楽と刺激を求めて、まったく違う人種がエレベーターに同乗してた図って、振り返ると象徴的な瞬間だったと思う。
パンキッシュなトンガリキッズだった私はマハラジャでかかるような音楽を毛嫌いしていたので、鉢合わせになると(ケッ!)と心の中で中指立ててたけども…
そんなマハラジャの対極にあったmushroomでは聴いたことのない刺激的な音楽をDJがかけていて、特にスタッフだったイギリス人のラスが定期的にやっていたJungle・Breakbeatsのパーティーが気に入り毎回遊びに行くようになった。
それまでには無かった「音楽を聴いて フロアで黙々と 好きなように踊る」ことができる場所で、独りで遊びに行っても適度な距離感でほっといてもくれるし、
それでいてみんなとても優しい。
ここが自分が求めていた居場所のように感じて、この頃にはもう全く短大には行かなくなっていた。
(親にバレたらえらいこっちゃ。)
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