大切の方法論
人との関わり方について、内省するべきタイミングなのかもしれない。
日々「機能主義を人間にあてはめないように」と思って生きているけれど、私の幸せはやはり「あなたの言葉で私の輪郭を教えて」なわけである。
その人の感性で捉えて、その人の主観で咀嚼して、その人独自の言葉で私のことを表現してほしい。見つめてほしい。教えてほしい。私に伝わるものは音だけなのだとしても、その音を出力するためにその人の記憶や思考力が総動員されていると思うと何とも嬉しくてたまらなくなる。「貢がれると嬉しい」ってこんな気持ちなのかな?指標が物質か、そうじゃないかの違いだけで。
私にとって、人からもらえた言葉は宝物なのである。何回も何回も反芻し味わいたいから大切に宝箱にしまって、宝箱を覗いては温かい気持ちを思い出して自分を励ましたり慰めたり戒めたり肯定したりして生きている。
でもそれって、他者をフィルターとして活用しているってことなんじゃない?自分はコレクター?キュレーター?
他者に「フィルター」という機能を求めているからこそ、「あなたの言葉で私の輪郭を教えて」なのでは?傲慢すぎでは?他者のリソースを総動員させて私という輪郭をアウトプットさせることに幸せを感じるなんて、まさに機能主義を人間にあてはめているのでは?
大切にしたい(機能主義を適用したくない)と思う人・モノに関しても、その人やモノを通して自分を見てしまっている。つまりフィルターにしている。自己の輪郭は、他者を通してしかわからないと信じ込んでいるから。
今の私の思考は、「自己は他者を通してしか理解できない」という前提のもと「他者をフィルターにするなんて自分のポリシーに反する。でも他者が私を表現してくれるのは嬉しい」。
人を、モノを、コトを大切にするためにはどうしたらいいんだろう。大切にしたうえで、自分にとっての宝物を集めるにはどうしたらいいんだろう。
前提をひっくり返す解・機能主義も案外悪いことだけじゃないんだよの解・宝物の間口を広げたり宝物の認識を変えたりする解 探しに行きます。大切にしたい人・モノ・コトを、大切にする方法が見つかりますように。