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03【一文無しの怖いもの無し!摩訶不思議アドベンチャー】

過去10年間、バックパッカーとして、アジア、アフリカなど、1人旅を続けていたが、常に帰る家や場所が、日本にあった。

バックパッカーの旅をして、貯金が尽きれば日本へ帰国し、次の旅資金の為に、その場しのぎの仕事を繰り返していたのだ。
カメラマンアシスタントからタイマッサージ師、そしてスナックなどの水商売に加え、もう少しマニアックでアングラな仕事もしてみたりして、いつも地に足のつかない生活をしていた。
その割には、ゴアで必要なコミニケーションプレイヤー技術力っていうの、全く腕が上がらなかったのだが。

日本で写真家として成功したいという若気の至りな夢もありつつ、常に心は外国を旅して暮らしていきたいとも思っていて、でも、外国で写真家として旅をしながら暮らすには、まずは日本で土台を作らなければいけないのではないだろうか?という、一般的な考えに囚われていたりもした。
それでも、安月給、寝る間を惜しんで、スタジオ勤務して下積み経験をするほど、写真家への情熱はなく。
いつも、ここではないどこへと~夢を探すよ。(GLAYより)を求めていたのだろう。


私は、20代半ば頃に謎の原因不明の背骨の鈍痛、不眠症など、自律神経失調症のような、鬱のような、病名のハッキリしない体の不調に4年ほど悩まされ続けていたので、親戚家族より日本に住むには不十分だけどインドを旅するには十分なくらいの、家賃収入仕送り制度があったのだ。

私の実の母親は、彼女が10代の頃から、重い統合失調症、精神疾患があり、私を出産してからは1度も退院していない。
通称、白い監獄暮らしなのだが、そんな家庭環境の手前もあってか、背骨が痛すぎて起き上がれない謎の病の時期もあった私に対して、援護してくれていたのだ。

身体の不調、鳴かず飛ばずのアート活動、ダメ男ヒモ男、と東京は中央線界隈で売れないバンドマン的な生活を続けながらのバックパッカー海外旅行。
日本社会的な無言の圧力もあってか、29歳の誕生日を目前として、全てを断捨離し、新しく自分が生活する、自分の街を求め、旅だった。


もう、何度目のインドだかは忘れたが、ミャンマー、南インド、マイソールを経由してゴアに辿り着いたのだ。
ここでも厨二病炸裂な私の気分は、魔女の宅急便、13歳の少女。


父は他界、母は白い監獄だったので、頼れる両親はいなかったのだが、家賃仕送りを助けてくれる頼れる親族はいた。
しかし、そんな親族には何も告げず、旅立ってしまった。

なので、親族と音信不通となった私への家賃仕送りは止まってしまった。
そして、貯金も底をついた。

それはゴアトランス生活を始めて3ヶ月目のこと。
シーズン真っ只中の2014年2月。

私は、29年間生きてきて、初めての生きる歓びと感動、私の世界の彩度が上がり、人生とはこんなにも映画のように美しかったのか。
という気分の頃だったので、根拠のない自信と、未知への冒険心にワクワクとしていた。

ゴアで全財産が尽きても、親族や友人にお金を借りようという考えはなかった。
なんとなく、それは、ダメなんじゃないかと思っていた。
理由は分からないけれど、頑なに、お金を借りたくなかった。
1人でなんとかしたかったのだと思う。
日本の、既存の社会に引き戻されるのが嫌だったのだと思う。

今、目先のお金を借りても結局、何も変わらない。

私は、無意識的に、自分の中に染み付いて離れない「何か」を変えたかったのかもしれない。


2013年の年末から、私のインド観光ビザが切れる2014年の3月。
今までのバックパッカー1人旅が団体ツアー旅行に思えるほど、初めてのゴアでの経験は、最高にアドベンチャーで、刺激的なトリップだったのだ。

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