なにかの終わりに対して始まりがあると仮定して、 わたしはその始まりに何ができるかを考えたがわからずにいる。 それに対して、焦りを感じ、自分にしかできない"なにか"を探し続ける。 しかし、不思議なことにそれに疲れ、日々の感情が溢れ出す。 "あぁ、自分には何も無い"と。 涙が止まらなくなる。 そんな時いつもいてくれる、もう、とっくに別れた君は私に向け、言葉をくれる。 "あなたにしかできないこともあるよ"と。 また笑顔で頑張ることが出来る糧になってくれることを君はまだ
私は、ラジオにメッセージを送るのが好きだ。 読んでもらえて、そのメッセージに対してパーソナリティの方が、一言かお返しの言葉をくれる。 そんな何気ないやりとりが私にとってはかけがえないものと感じられるのである。 あるひとりの友人以外にラジオネームを教えていない、友人には知られてないラジオでのこと。 しかし残念ながら、?家族全員には知られている。 しられたときにはあぁ、って思ったんだけど、でも、まぁいいや、という境地に至った。 メッセージを送って読まれる時大体、根詰め
互いの利害が一致することはごく稀である。 私がこうしたいと思っていることがあっても、パートナーは、ああしたいと思っている。 そうやって、毎日を繰り返している。 まぁ私の場合、パートナーは私がしたいことを尊重してくれるので、自由にさせてもらってるけど。 パートナーに限らず、職場でも。 利用者さんへのケア、見守り、記録で意見がぶつかった場合、 そもそも、前提として、知らないことがあったら聞き取り、カルテからの情報、利用者の観察、利用者様、家族様とのコミュニケーションを
生きること死ぬこと。 同時存在し続ける。 変えられない事実であり、紛れもない現実なのである。 しかし、この一度きりの人生で人はみな何かしらに希望を持ち、何かに縋り、苦しいことにも必死に堪えながら生きている。 もちろん私も、そうである。 発達障害と、うつ病。ノンバイナリーである私は、いつも、Twitterにすがっている。 優しいフォロワーさんが話しかけてくれる、ラジオのアカウント。とても居心地がいい。 ココ最近は、福岡県久留米市にあるbaobabcoffee ここ