「禅とハードル」

「禅とハードル」(為末大・南直哉 2013)という本を読んだ。
非常に共感するところの多い本であった。

為末氏は、元400mハードル選手で日本記録保持者(2013年1月現在)。
南氏は、禅僧で、青森県恐山菩提寺院代。

この本は、その両氏の対談録として出版されたもので、
「現代人が感じている自己の不確かさの正体」について、
少なからず言及している。

例えば、こんなふうに…(ブログ管理者意訳)。

南:「何で生まれてきちゃったのか分からない」
という根源的な切なさに対して、どう生きていけばいいか、
どう努力したらうまくいくかなんて分からないでしょう。

為末:・・・自分を肯定しようと努力するより、
自分を愛せない状態で、ほどほどにどう落ち着かせていくか
という知恵が大事…。

南:・・・「生きる意味」は普遍的にこの世に存在しているもの
ではなく、だから人間は誰しも、自分の存在に対して
根源的な不安を抱えている。

だからその不安を何か別のものでふさぎたい、と常に思っている。
それが今の自分を肯定するための物語(フィクション)※です。
フィクションでも、それがないと、人間は実存できないんですよ。

 ※ここでいう(物語)フィクションとは、たとえば「国のため」
「会社のため」「社会のため」「家族のため」「自分のため」
「過去への贖罪」「未来への投資」とか、自分の行為に対する
理由づけのようなもの。(ブログ管理者脚注)

なるほどね~と心底思った。

自分はそういう「物語」を見つけられずにいるのだと。
だから自分はこんなにも辛いのだと。

自分の存在に対して抱えている根源的な不安を、
どうしても埋めることができずに、
どこかにそれがあるはずだと、必死になって探している
から辛いのだと。

その一方で、こうも思った。

ふりかえってみると、僕は長い間、「自分に合った物語」
を見つけられずにいた。
でもそれは、「男として」とか、「勝ち残るために」とか、
いわゆる「大きな物語」のなかだけに「自分の物語」を
探してきたからではないか?

過去記事「その命は誰のものか?」にも書いたとおり、
僕の命は、僕に関わる沢山の人々に、好悪や濃淡はあれ、
既にそれぞれの意味を持って存在している。

つまり。

大きな意味や物語などなくても、たくさんの人のなかに
すでに僕は存在しているし、その時点で、
僕という命は、小さくても沢山の意味や物語を持っている。

だからといって悩みは尽きない。
でも、僕は生きているし、これからも生きていける。

いいなと思ったら応援しよう!