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その命は誰のものか?


俺の命は俺のものだ。
別に頼んで産んでもらったわけではない。
どう生きてどう死のうが、俺の自由でしょ。

20代前半に始まった躁うつ病が酷くなり、
それを酒でゴマかす毎日を続けていた40代初めまでの
およそ20年間を、
私は自分の命について、そんな風に思って生きてきた。

大学を卒業し、就職して働き、結婚して子供が生まれて、
病気がひどくなり仕事を辞め、1年半のリハビリの後に
専門学校に入り直し、3年必死で勉強し医療系の国家資格を取って
社会復帰した...その20年の間。

俺の命は俺の勝手にする。
という、心根は全く変わらなかった。

今から思えば笑い話だが、16年前に精神科の専門医から

「あなたは疑いなくアルコール依存症です。命が助かる道は断酒だけです」

と言われた時も、
「分かりました断酒します」
と、しおらしく答えた帰り道に何の迷いもなく駅前の居酒屋に入り、
瓶ビール大1本と冷酒2合を、イカ丸焼きを肴に呑みつつ、

あーコレをやめるのか、と、人ごとのように思っていた。

命が惜しければ断酒しなさい。と、偉い先生から言われても、
そもそもがそれほど惜しい命ではないのだ。
酒の力を借りてかろうじて生きているのにそれをやめて生きろ。
とは、全く理解不能なのであった。

まぁそれでも、人一人が死ぬのは結構大変なことで、
死んだ後に身内に借金は残したくないとか、
できれば生命保険が下りるようにしたいとか、
考えることはなかなかに沢山あって、そう簡単には逝けない。

断酒のためのリハビリプログラムに取り組む同病者さん達と過ごし、
医療系専門学校を卒業して国家資格者として働き始め、
その間もたびたび断酒に失敗して、本当に色々なものを失いながら、
偶然のように命だけは失わずに数年が経った頃、
私は大変なことに気がついた。

俺の命は俺のものではない。ということだ。

「俺の命=俺のもの」的発想は、
俺の親、
俺の妻、
俺の子供、
俺の友人、
俺の同僚・・・と、
自分を中心とした同心円上に人間関係をイメージする。

それに対して。

俺の親→親の子供
俺の妻→妻の夫
俺の子供→子供の父親
俺の友人→友人たち一人一人の友人
俺の同僚→同僚一人一人の同僚

と、俺という命は、
俺に関わる沢山の人々に、
好悪や濃淡はあれ、
それぞれの意味を持って存在するとも言える。

そして、そこに広がっているのは、
「俺」中心の同心円ではなく、
無限の時間軸・空間軸を持つ多元的なネットワークだ。

その中で、
俺という一人の人間が、
自分の命の意味に浅はかにも見切りをつけることが、
マクロで見ればどれだけ無意味で、
ミクロで見ればどれだけ罪深いか、
時々は、静かに思い出してみるといい。

そんなことに、気がついた。


話はガラッと変わるが、最近の僕の仕事=ガイドヘルパーは、
黒子(クロコ)になる仕事だ。

仕事中、僕自身は僕の意味を考えなくていい。
そんなことをしなくても、僕と一緒にいる同行者が、
僕にささやかな意味を与えてくれる。

そして、
それがいくつも集まり、
互いに重なり合って、
「僕」という命のカタチが、
ぼーんやりとでも浮かび上がったら、
多分それが「僕」なのだろう。

自分の命のあり方は、自分で決めなくて良い。

そのことに気がついた僕は、随分と気が楽になった。


おしまい

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