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最近教育について考えたあれこれ

 いつものように家でyoutubeを見ていたら、The New York timesのチャンネルの興味深い動画に出会った。『Instruments of a beating heart』というタイトルの動画で、調べてみると日本の公立小学校を舞台としたドキュメンタリー映画『小学校-それは小さな社会-』の編集版だった。内容は、日本のある小学校に密着し、学校生活での出来事を記録するというもので、動画内では少女が音楽発表会を通して成長する姿が描かれる。映像を見ながら、日本社会、日本人、そして私がどこから来て、どこへ行くのかについて考えざるを得なかった。私たち日本人の多くは普段から周りに気を使い、迷惑をかけないように時間を守り、それが当たり前のものとして生活している。それらの「日本人的」な価値観というのが小学校で形成されたのではないかというのが、この映画の主題であるらしい。日本人とその他の国の人の違いについては、外国人との交流を通して、またイギリスでの交換留学時代にもよく感じていたことの一つでもあったため、面白く鑑賞した。社会学を学んだ学生としていくつか考えたことを駄文だが書いて記録していく。(文字通り、文章はめちゃくちゃです)


日本人が学校で獲得するハビトゥス

驚く人もいるかもしれないが、OECDの出しているreportによると、日本はsocial mobility(社会の流動性)のランキングで比較的高い順位に位置している。(以下の図を参照)

World map of the Global Social Mobility Index (2020)

 Social mobilityとは簡単に言えば、自分の社会的な階級の移動のしやすさである。それが低ければ低いほど格差は再生産されやすい。地図上では色が濃い方が流動性は高く、薄い方が流動性が低い。図からもわかる通り日本は国際的に見ても流動性が比較的高い国なのだ。(もちろん格差は拡大しており、北欧がより高いことは事実である)
 今回『Instruments of a beating heart』を見て、様々なことを考えたが、日本の流動性の高さの理由の一つとして、小学校での教育が果たす役割が大きな影響を与えているのではないかと感じたので特にそれについて少し私なりの考えを書いてみたい。

 ピエール・ブルデューという社会学者は、「ハビトゥス」という概念を用いて社会を分析した。ハビトゥスは個人の態度や好み、慣習行動のもととなる社会的性向のことである。それらは主に学校や家庭で獲得される。重要なのはブルデューはハビトゥスを普遍的に応用可能な規則とした点である。

(ハビトゥスとは)現に所有されている諸特性の習得条件に固有の必然性を直接に獲得されてきたものの範囲を超えて、体系的かつ普遍的に適応することができるようにするものである

『ディスタンクシオンI』

このようにブルデューの説明は難解であるため、具体例をもとに考えてみよう。岸の100分で名著『ディスタンクシオン』の例が非常に明快でわかりやすいのでそのまま引用する。例えば、我々はピアノを習うことでピアノの技術だけでなく、さまざまな音楽に対する感性(身体化された文化資本)を身に付ける。また重要なのは、「何かを努力して身に付ける」という過程を体験することで、その態度(ハビトゥス)がピアノ以外でも役に立つ(体系的かつ普遍的に応用できるもの)であるということだ。
 私たちは小学校で、教科の内容だけではなく生活面についても学んできた。朝は委員会であいさつ運動をしている人がいる、昼になれば給食を自分たちで配膳し食べる、食事後は歯磨きをし、帰る前には掃除をして帰る。それ以外にも挙げればきりがないが、私たちは学校という小さな社会で、ハビトゥスを獲得していく。そしてそれは学校以外のことでも適応することができる。
 実際に作品中一人の少女が、音楽の発表でのオーディションや練習を通して失敗しながらも諦めず成長していく様子が描かれる。(これを見て私は自分の生活や態度を反省させられました。頑張ります)  彼女が発表を通して獲得したのはシンバルの演奏技術だけではなく、何かをやり遂げるという態度なのである。それは、勉強にも適応されるかもしれないし、何にでも適応されうるだろう。
 仮に学校にこのような機能がなかったら、流動性はますます低くなるように思われる。教育がより私的なものになり、家庭における教育の重要性が高まることで子供の教育に格差が反映されやすくなってしまうからだ。すべて家頼りとなってしまえば、親のハビトゥスが継承されてしまう可能性が高くなる。日本は、公立の通う小学生の割合が99パーセント近くと他国に比べて圧倒的に高く、たとえ階級が低い家庭に生まれたとしても、学校でいいハビトゥスを獲得することが可能になり、それによって格差の再生産が発生しにくいという側面があるように感じたのだ。
 また社会の流動性の違いの原因として、入学試験のシステムの違いがあげられることが多いが、それよりも学校という公教育の中で子供が、どのようなハビトゥスを獲得するかという部分の方が重要であると個人的に考える。学校で「継続的に努力できる」ハビトゥスを獲得した人は、どんなシステムにおいてもある程度の結果を出すことができるだろうということだ。
 ブルデューも言う通り、ハビトゥスはそれが作り出した慣習行動をもとに常に生成変化するものであるため、学校で獲得されたものがずっと残るというわけではない。たとえ学校でいいハビトゥスを獲得できたとしても、それを卒業後に変化させたらその恩恵は得ることができないだろう。しかし、日本の公立小学校で教わるような価値観がどこか基盤的なハビトゥスとして今の日本人を形作っている側面があるのかもしれないと、この映像を見て思ったのである。

本編は見たかったですが、気が付いた時には私の地域で公開が終わっていました(泣)、ということでまた機会があったら本編を見たいと思います。以上、大学の期末のレポートで忙しい時期に現実逃避(?)で書いた駄文でした。



参考文献
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンI』石井洋二郎訳、藤原書店、2020年
文部科学省『諸外国の教育統計 平成 29(2017)年版』
the World Economic Forum "The Global Social Mobility Report 2020 Equality, Opportunity and a New Economic Imperative"
 

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