解体新書 3
自身が得たインプットは使ってナンボ。自分の言葉・自分の血肉として得たものを活かす。そのアウトプットの場としてnoteに週5更新という目標を立て100日の継続を終えました。
節目という事もあり、ここらで改めて、自分のルーツ「ごとうはなぜ子育てを熱く考えるようになったのか」「ごとうのしたいことは何なのか」を振り返る機会を何度かに分けて作りたいと思います。
これまでも自己チューだった本noteが更に自己チューになるとは思いますが、宜しければお付き合いいただけると幸いです。
▼ごとうと 父親の背中
▼チームであり 社畜であり
▼世の全てを憎もうとした 出産直後←Today's theme!
▼FJとの出会い と 転換期
▼ボスで変わる!確信が実感へと変わった瞬間
▼娘達へ
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・ごとうと 父親の背中
・チームであり 社畜であり
PART3 世の中全てを憎もうとした 出産直後
※今回のセクションは、正直、記憶の中から引っ張り出すのがしんどいので、ぼかして書くところもあることをご了承ください
妻から妊娠検査薬を見せられた時の感動は今でも覚えています。
二人でどこの産科がいいか調べたり、早々にガーゼやら揃えたり…。本当にワクワクしました。妻の笑顔が僕も本当に嬉しかった。
ですが、その笑顔が曇ることになりました。
流産
妻の職場は、恒常的な人不足に見舞われていました。今でもそうです。詳細は彼女のことなので控えたいのですが、あまりの激務、周囲の無理解…。時には心無い一言。様々な要因が重なり、妻は2回流産を経験することになりました。
2回目流産した際は、そのまま「焼肉食べたい!」と。僕は仕事でしたが、朝から妻と合わせて、二人で焼肉屋へ。肉を焼きながら、彼女はポロポロと涙を流します。多分、一生忘れないと思います。涙を流して、それでも元気を出そうと肉を無理に眺める、悔しそうで悲しそうな彼女の顔を。
あの時僕の心に灯った怒りの炎と言いましょうか。多分今でも燻っているんですよね。大切な人の命を奪われるって、こんな気持ちになるんだ…と。心無い一言をかけた人物が一方でのうのうと毎日生きていることや、妊娠中の妻に対し、身勝手な要望を押し付ける殿様顧客…。謝罪の一言もない職場…。もし直接的に心労をかけた人物に出会うことが出来れば、どうしてやろうか。そんな事ばかりを考える毎日…。道徳として、そんな事は何の解決にもならないことは分かっているんですけど、収まりがつかない…。
だからこそ、妻から長女を「妊娠したよ」と聞いたときに迷わず思いました。今度は絶対に俺が守るって。具体的にどうすればよかったのかは分かりませんでしたが、ともかく守るって。
仕事をどうするか。病院はどうしていこうか。沢山二人で考えて、妻は退職せず、産休を取ることにしました。次何かあったら、僕が職場に怒鳴りこむことは伝えましたが…。途中、東日本大震災も体験しましたが、それでも長女はスクスクと妻のお腹の中で大きくなり、その夏に無事に僕らの腕に抱かれることになりました。
答えの出ない「守る」
さて、守るといったものの、どうしていいものか。当時の僕はさっぱりわかりませんので、結局、父親と同じく「男とは!女とは!」というテンプレートに飲まれてしまっていました。
どうしてかというと、”確信”が持てなかったんです。支えるという事に。
多分おぼろげながらに僕は「イクメン」という言葉を意識していたと思います。僕も子育てに積極的に関わっていきたい!と。
これは多分、アンチテーゼでもあるんです。会社にいる時に上司から聞く武勇伝。「家に帰ったら”また来てね”って言われたよ(帰れてないから)」「妻から無視されるんだよなぁ」「子供から”いたの?”なんて言われるんだよ~」と嬉々として喫煙所で盛り上がる姿を見て、「俺はアンタたちとは違う」と。家族も笑顔に出来ない連中が顧客を笑顔に出来るわけがない!と。
でも、その思考に行動がついてこない。行動の正当性に確信が持てないからです。
職場で出産報告をしても「お!じゃますます仕事頑張らないとな!休んでいる暇なんてないな」と。両親学級も、ほぼほぼ出産前に出たのですが、その場でも「めずらしいね~」でおしまい。少なくとも、当時周囲から「パパも子育て頑張らなきゃね!」と言われた記憶は全くないです。イクメンなんて言葉は都市伝説なんじゃなかろうかと。滑稽なのは、たまたまとあるお偉いさんと「パパの子育て」という話した時。「イクメン?それどこに売ってんの?」と。話がかみ合わなかったのは、イクメン=麺類だと思われていたようで…。
そんなこんなで、パパが子育てする!なんてのは、ただのファンタジーなのではないだろうか。そんな思いが芽生え始めます。すると僕の中にあった「ママと二人で一緒に子育てをしていくんだ」というおぼろげなゴールに対する自信が、どんどん霞んでいきました。
結局、父親として今僕に出来ることは、現実にはマネーゲームだけなのだろうか。
子育てに積極的に参加する…というのは都市伝説、もしくはごく一部の選ばれた特権階級にのみ与えられた権利なのだろうか。
そんな僕の迷いは「僕の子育て」=「妻を支える」=「稼いで稼いで家計を支える」というサイクルを形成しました。事実、子供が生まれてから、僕の帰宅時間はますます遅くなり、1か月休み無し・9:00~3:00まで仕事なんてこともざらになりました。でも、それでいいんだと。それがきっと、僕なりの「支える」なんだと、自分で自分に言い聞かせてました。
でも。
そんなある日、妻から「もう限界」と言われました。
そりゃそうですよね。緊急帝王切開で子供を生み、まだお腹は痛む中、頻繁な夜泣きで睡眠時間を削られ、置いたら泣く・離れたら泣くで自分の意志での行動は制限される。しまいにはあったかい食べ物を作っても、極度のまとわりつきで冷めたり伸びきった後しか食べられない…。
そんな状況で、たった一人で「小さな命」と向き合う日々をママは過ごしていたんです。自分の時間、息つく暇なんてない。
僕は、そんな彼女の状況を何一つ理解できていなかった。男は仕事だ!カネだけ持って帰ればいいんだろう!と。でもその役回りだけなら、僕が父である必要はこれっぽっちもないんですよね。ただのATMです。
このセリフを妻に言われた際、呆然とする中でふと目に入ったのが「結婚式のDVD」。僕はそこで「悩める時も~」と神父さんに言われ、「ハイ、誓います」と答えています。でも、誰よりも守りたかった人・笑顔にしたかった人を守れていなかったんです。ホント、何やってんだろうと…。
自分の道を見失って、挙句妻に愛想を尽かされる。きっと嬉々として武勇伝を話すオッサンはこうして量産されていくのかもしれないと思いました。
そして、自分が「ああはならねぇぞ」と思っていたステージに、いつの間にか落ちていたこと。うちの会社では、部下に対して「いつまで数字出すんだコラ!」と机を蹴り上げるような連中は、十中八九、喫煙室で家族に愛想つかされた武勇伝自慢をするオッサン連中でした。そのステージに自分も落ちていたこと。今世紀最大の失望でした。自分に対しての。
でも、もしかしたら。彼らもそうしなくちゃ、今の組織で生きることが出来なかったのかもしれません。だって彼らだって、会社で言い方は悪いけど「飼われて」いるんです。待遇を盾に、単身赴任や無茶苦茶なノルマを受け入れている。現代版の参勤交代です。氷河期世代の僕にとっては、仕事を失うかもしれない…というのは、当時何よりも恐ろしいこと。そんな中で個人が出来ることなんて何もないのではないだろうか…。ただ流され、毎日を送るだけ。そこに僕の意志はなくても、カネという糧が家族に落ちるのであれば、僕は自分の意志を持つ必要なんてないのかもしれない。
それでも、一度限りの人生。生まれてきたからには、自分の頭で考えて、生きたい!と。どうにかして、今の状況を変えることは出来ないのだろうか…と。
転機
そこである決意をしました。「わたし定時で帰ります」と。少しでも家庭に関わる時間を作るには、仕事にかけている時間をコンプレッションしなければならないんです。ですが、ただ「定時なんで帰ります~」では、敵を作るばかりですし、氷河期マンですから、雇用継続も不安になる。それならば決められた時間で、成果を出して「帰りますけど、何か!?」くらいに堂々と帰る。これを実現することが必要では?と考えました。
早速、部下たちに理由を話しました。すると部下も「ごとうさんのお子ちゃんとママのためですもんね!」と、事業所内の業務分担や効率化の推進に協力してくれました。チームとして、彼らがそう動いてくれることに涙が出たのを覚えています。でも彼らがそうして動いてくれたのは、この一大作戦を自分事に出来たから。僕が家族との時間を守りたい!と思ったのと同じように、彼ら彼女らにもそれぞれ守りたいもの・大切にしたいことがありますから。みんなでハッピーになってやろうぜ!それが僕のチームの合言葉になったことで、このチームは定時出社・定時上がりが出来るようになり、みんなで一緒に事業所の鍵を閉めて駐車場で「おつかれ~」が出来るようになりました。
でもそれでも、僕の帰宅は定時22:00です。夜中に帰ることはなくなったとしても、この時間帯では結局、子供が起きている間の負担は妻に押し付けることになります。もっと出来ることがあるはず。そこで考えたのが「育休」です。僕がまるっと家の事にコミット出来れば、ママの負担も減らせますから。
…ですが、取得は叶いませんでした。正直、文字に起こすのが僕もダメージでかいので、その事実だけを記します。
そしてこれがきっかけになり、僕は会社に「子育ての方が大事な奴」というイメージを持たれることになり、社内での立場はどんどん下降しました。チームのみんなのおかげで、成果は出していたと思います。振られた数字も全部達成していました。でも、そこじゃなかったんです。
忠実な兵士に噛みつかれた。あいつは裏切り者だ。
忠実な兵士以外はいらない。それが本音でしょうか。その後は思い出したくもない出来事が沢山ありました。
結局、会社を離れることになりました。ボスからは「助けてやれなくてすまない」と。いやいや、アンタのせいじゃないよって…。当時味方をしてくれた部長からも「すまない」と。そういう心ある方々もいてくれたんですが、それでもここにいると、もう僕の心が壊れてしまう…と危険を感じたのが本音です。当時の僕も、今考えると感情的だったことは否めませんが、それでも「仕事と子育てを両立」しようとすると、これだけ多くの壁があり、嫌な気持ちになる…。ただ、何とかバランスを考えて、一緒に育てていきたいだけなのに…と。
敵は身内?
退職後、応援の言葉もいただきましたが、思わぬところから攻撃が始まりました。義実家です。
義実家は僕の親父以上の昭和OS。しかも極度の押しつけ癖と言いましょうか。このため妻も僕と付き合っている時に、それをひた隠しにしていたくらいです。ばれたら何を言われるか分からないと…。初めて会って話した時も、多分、どこまでも価値観という意味でお互いにすり合うことはないんだろうな…という感覚を持ちました。付き合っている頃から毎日のようにかかってくる電話、妻の都合を無視して夜勤直後に「遊びに来い」と。あんたの事が心配だから!で全てを押し通そうとする姿勢…。単純に子供を支配し、子供に依存する。生き方を制限する。正直、僕がこの世で最も嫌うタイプの親でした。
結婚するとなってから、僕に対し「だいちゃんは色んな発想できるもんね」と、多分一定の距離感を置きながらも、接していたとは思います。でもどこかで「こいつは俺たちの価値観に染まらない奴」という違和感を持って距離を置いて接していたのではないでしょうか。娘が生まれた直後の病室で、義母が「だいちゃんはちょっと出てって!家族でまずは祝いたいから」と言われた時に、そうした距離感が形になった気がしたのを覚えています。僕は家族じゃないのねと。
そんな調子ですからね。退職した後には「やる気のないダンナ」とレッテルを貼られ、全く論点違いの交友関係や出身校、僕の両親のことまでも口汚く罵倒され続けました。そんなに悪いことしたのかな?ただ子供と妻との時間を作るために…って思っただけなのに。彼らの中の父親というテンプレートから外れた僕は、道を踏み外した外道。そういう扱いでした。
退職後のある時、僕が家にいる時に義理の両親が来ました。散々非難された後のことです。何だろうと思っていましたが、ただ単に”追加で非難”しに来ただけでした。「お前のそういう世の多数に合わせようとしないところが信用できなかった!なぜ俺のいう事を聞かない!」と。俺も妻もアンタの持ちモノじゃない。生き方を縛るな!そう言いかけた直後に「世の中こんな父親ばっかりなら、俺らは安心して年金で暮らせないな」と。最早話す気もなくなりました。結局、孫も妻も関係ない。自分たちの事ばっかりなんだな、この人達…と。妻には言ってませんけどね。
※これ以降、妻の実家には僕は一度も顔を出していません。無理に出そうとも思いません。
少なくとも、「味方なんていないんだな…」と絶望しかけたことは間違いないです。
男は仕事。女は育児。24時間戦えますかetc...。
誰が決めたかもわからない謎のテンプレートにガチガチに縛られて、誰もが生きにくくなっている。そんな気がしました。
世の中全てをぶっ壊せるならそうしたい。この時は本気でそう思いました。
子連れ転職はこんなにも厳しい
生まれて初めてハローワークへ行き、転職活動を始めます。基準は「家庭と仕事を両立できる」こと。共働きゆえ、妻の収入も幾分か計算できます。
ところが僕には全く「スキル」がないんです。1社で特定の仕事しかしていなかったので当然です。希望するような条件の募集に応募しても、あっさり撃沈の日々。
加えて、面接で何度か言われたセリフ。「何であなたが子供のことを考えるんですか?」と。妻にやらせないの?と。所詮世の中、イクメンだなんだ言っても、現実はその程度なんだ…と。
時々、気分転換しないと心が沈む一方なので、よく長女を散歩に連れて行きました。でもベビーカーを押していると、平日の公園にいるメンズは僕だけ。周りのお母さんたちの視線がきつかった。「あの人仕事クビかしら?」とか、そんな事言ってないとは思うんですが、そういう刺さる視線を感じているという感覚がどうしても抜けなくて…。結局、逃げるように公園から帰ったことも何度もありました。
そんな日々が続いたある日、震災の緊急雇用で盛岡で働くことに。
最低最悪の上司たち
職場に行くと、ある異変に気付きました。会話がない、と。僕の他にも働いている女性がいまして、彼女は時間きっちりで帰るタイプのようでした。ところが、上司がそれをある日「ごとうくんさ、彼女どう思う?」と。彼曰く、「定時帰りはやる気がない」「仕事は厳しく一人で戦うもの」「嫌ならやめろ」と。あ~あ、最悪なガチャを引いてしまった…という感覚。1年という期限付きで終われたので良しとしますが、何だかなぁ…
その頃からでしょうかね。ブラック企業問題とか、パワハラとか、そういう書籍を読んで研究したりするようになったのは。加えて僕には幼い娘もいます。彼女が大きくなったとき、こんな組織ばっかりで、こんな目に遭ったら、果たして僕はそれを許せるのだろうか…と。
彼とその女性は、定時帰宅をめぐって度々口論していました。その度に上司は「使えない奴だ!」「嫌ならやめろ!」と。同じボスだった身として、それは最低最悪の一手だという事は分かっていますが、一緊急雇用の僕なんかに…という思いもあり何も出来ず、カネだけもらって、気持ちだけが荒む1年は過ぎました。
その後、とある大手の金融機関に在籍することになりました。千葉まで研修に行ったのが懐かしい。
ですが結局そこでもパワハラ上司ガチャを引き当ててしまいました。皆の前で罵倒する、女性社員が泣くまで責めたてる、そんな姿を毎日のようにオフィスで眺める日々。あまりにムカついたので、「言い過ぎではないですか?」と言った翌日、僕の机に置いていたあるものが捨てられていたり。話を聞くと「家族のためになんて女々しい奴がこの組織で戦えるわけがねえだろ」と。刺してやろうかと思いました。それくらいに自分の中でマズい感情が沸いてしまいました。
結局…
退職前後、もっと言うなれば妻が流産したあたりからずっと感じていた「笑顔で子育てしたいだけなのに…」という思い。しかも、同じような思いを抱えているパパママのなんと多いことか…。結局世の中は何一つ変わっていない。だから、同じ仕事をするなら「子供達に残せる未来を創りたい」と思うようになっていきました。もう、こんな思いをするのは僕たちの世代だけで終わりにしたい。子供達に同じ思いを味合わせたくない!と。
でも。その方法が分からない…。何も出来ずにこのまま終わるんだろうか…。
そんな時、ネットである人物の記事を見ました。そこにはこんなことが書いてありました。
パパが家庭に参画するためには「ボス」の固定化した意識を変えないといけない。
と。
ハッとしました。俺が漠然と考えていたことと同じだ!と。
結局、労働者が個人の責任で頑張っても、限度があるんです。組織の風土そのものを変えるには、ボスの固定化した意識をぶっ壊して再生させないといけない。漠然と思っていたことを公然と発信される嬉しさがこみ上げます。
そして、彼はインタビュー内でこうも書いていました。
パパが笑って子育て出来る世のなかにしたい。
と。それって、俺が願っている世界だ…と。
ホームページを見ると、なんだこりゃ?と。代表はロン毛で「ロックだぜ!」みたいなインタビューしてるし。絵本読みながらギター弾いてるおっちゃんがいるし。
でも、みんな楽しそうに子育てを記事や動画で語っている。バルーン片手に笑顔の子供達。キャンプ場で笑顔を交わすパパとママ。
直感で「俺もこうなりたい」と。
ファザーリング・ジャパンにコンタクトを取ったのは、その数分後でした。
思えば、これが「子供が生まれて以来の大転機」です。
⇒次回へ続く
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