くだらないし、オチもないが割と切実な話
私の人的関係はホモ・ソーシャルである。私の人的関係の8割くらいは男性である。女性はいないわけではないがとても少ない。それは自然とそうなった、というよりは私が無意識に女性を避けていたのではないか。そういうある種の制約に思考が及んだ次第である。
(以下私の原体験という真実に関する記述であり、常識的に支離滅裂な可能性があることはご寛恕願いたい)。
小学生高学年くらいになると「男」と「女」という区分は明瞭に意識され始める。その帰結として「あいつはあの子のことが好きらしい」的なセクシュアルを起点とした人的関係というのは非常に重大な問題になってくる。その主体が所謂「陰キャ」だったらどうだろう。彼(彼女)は相当に揶揄われるだろうし、「キモい」といった謂れのない価値を下されることもあるだろう。多分私はそれに過敏であったのだ。過敏だったから「男」である私が「女」にいかなる理由であれ、声をかけるというのは一種の「下心」をもっていると思われるに違いない、という存在証明のしようもない他者の目を内面化した。それが今の私の「ホモ・ソーシャル」な人的関係の原体験である。
ではこの原体験の効果というのはいかなるものか。例えば講義で知り合った同年代の女性に声をかけようとすると、「こいつは何か下心があるんじゃないか」と思われ、疎まれるような気がして声をかけられない(一応言っておくが下心はない。話が合いそうだな、くらいの興味で話しかけることすらできないことが問題なのである)。他にも思い当たる節があるが、総じて女性に話しかけるときには、今でもかなりのエネルギーを使う、あるいは話しかけられずじまいになるのはこれに原因があるように思われる。こうして七面倒にして無駄な葛藤に疲れ、ついつい男友達とばかりつるんでしまい、ホモ・ソーシャルな人的関係が構築されていく。無意識に私はこうした制約をかけて人間関係を結果的に「選んでしまった」。
ここまで考えると男/女という区別に固執してしまっている自分にくだらなさ、みじめさ、人間としての底の浅さを感じてしまい、自分に絶望しているというのが現状である。