概念と関係に関するメモ書き
自分ウケ方向に自らを生成変化させていくことをリゾームだと考えていた。私の記憶にある、しかし一般には絶対結びつくことのないような甲と乙、丙と丁の、その記憶を媒介としたモノとモノとの私にしかできないし意味をなさない唯一無二の終わりなきネットワーク。時に途切れたり付け足されたりしながら変化を続けていくリゾーム。これは関係の創造であると言える。この場合問題となるのは甲と乙をつなぐ記憶という「媒介」がもたらす甲と乙の関係という創造性であって甲そのもの、乙そのものが創造性ある概念である必要が全くないからである。鎌倉と友人Aの顔とを「私は昔友人Aと鎌倉に行ったことがある」という記憶で関係づけたとき、その記憶は私にしかない唯一無二性があっても「鎌倉」と「友人」はこれまでこの世界に存在する既存物として創造性を発揮する必要はない。
「実践哲学と言うときのこの〈実践〉という言葉が獲得しつつあるその今日的な意味とは(中略)つまり、実践なきあるいは変形なき説明(中略)から哲学的活動をどこまでも切り離して、一般概念あるいは説明体系を適用するだけの思考に抵抗できるようなパラ・グラフ(意味や価値の変形とそれらについての概念形成を含んだ言説群)を開始することである(江川隆男『シリーズ道徳の系譜 死の哲学』2004年 河出書房新社 P.21より引用)」。「パラ・グラフ」すなわち「概念形成を含んだ言説群」の開始。概念形成の開始。つまり概念の創造の開始。これが実践哲学であるならば、これは甲・乙・丙というモノの創造でなければならない。関係ではなく概念乃至モノそれ自体の創造。つまりリゾームが哲学になるには関係の創造から概念の創造に飛躍せねばならない。
じゃあどうするか。ひとつの光明を見出してはいるがそれについてはそのうち書くことにする。書き出す前にもう少し自分の頭で考えたいからだ。