伯父の訃報
昔お世話になった、父方の伯父が亡くなった。
ここ数年は、自分が海外で仕事が忙しいことも理由に、年賀状もお送りし損ねており、ご挨拶もせずにいたことを、少し後悔している。
直接、べったりいつも一緒にいたわけでもなく、むしろ、盆と正月に、親戚の集まりでお邪魔し、遊ばせてもらっていた程度。自分が伯父について語れる立場でもなく、そんなこと恐れおおくてもちろんできやしないのだが、それでも、どこか心に残っている。
7人兄弟の長男として、戦争中から、一家を支え、それぞれの子供達が独立した後も、兄弟夫婦で集まり、皆の中心になっていたと聞く。
こちらが物心つくかつかないかの頃から、あえば、身を乗り出して話かけてくれ、何かを話せば、さらに身をのりだして聞いてくれた。大勢の親戚の子供達も世話しながら、一同で食事する際、みんなに声をかけてくれたし、一人で訪れた時も、台所横の食卓で焼肉を一生懸命焼いてくれた姿が何故か思い浮かぶ。
確か、40年前くらいに、ニューヨークに赴任されていたのではないか。いろんな国のコインをくれた。最初はアメリカのコインをくれて、珍しいものだからはしゃいだんだと思う。それからは、わざわざ別の国のコインもくれた記憶がある。今にして思えば、その他の国には、訪れもしないで、喜ぶから、と買ってくれていたのだと思う。その後、自分が大学生の時に、ニューヨークに行き、地下鉄に乗った話をしたら、「いやあ、僕ら赴任中は、怖くて乗れなかったよぉ」なんて話もした。
自分がシンガポール赴任になった際は、戦争中、日本軍がシンガポールに上陸したことを知らせる記事が新聞に載ったことを覚えている、と教えてくれたのは、この伯父だったか、その下の伯父だったか。
そいうえば、父の兄弟は、意外と海外のいろんなところへ、出張や赴任している。
これも子供の頃、夏休みに訪れた帰り道か、車で送ってくれたのだが、道路沿いに見えるラーメン屋だか、カレー屋を指差し、「君のお父さんは、辛いもの好きか? だったら、あそこ、一度行ってみるといい。」と勧めてくれた。子供心に、「大人になると、兄弟の食べ物の好みも忘れちゃうのかな?」と不思議に思ったことがある。
そういう自分も、現在50代となり、海外赴任が10年目となっている。兄の食べ物の好みも、把握してるとは言い切れず、忙しさを理由に勝手に暮らしてる故か、両親についてさえ、きちんと知っているか、と問われると心許ない。
今になって、出来ることなら、伯父ともっと話をしておけばよかった、と思う。それが、単なる一過性の感傷的な思いであることも事実かもしれないし、もっと早くに気づいていたところで、実際に行動に移せていたかはわからない。
ただ、ネットでなんでも検索できて、便利な世の中に暮らしている、と、無意識のうちに油断している自分にとって、絶対にネットでは検索不可能な、伯父との会話という体験を、失った事実に、思いの他、打ちのめされている。
そう、ネット上で流通する、便利な情報、タメになる知識、有料無料問わず、コンテンツは膨大。世界は、これらのテキスト、画像、動画で語り尽くせてしまえるのではないか、と、そんな気分にすらさせられるが、そんなものに現を抜かす時間があるなら、僕たちはもっと、目の前にはいないけど、ちょっと近くにいる人物、の、生の声を聞くべきなのだ。
感動的でもなければ、すぐに役立つ話などない。それでも、ふーん、そんなこともあるんだ、という、普段は決して自分の耳に入ってこないような情報や、すぐに役には立たないけれども、何年・何十年もたった頃に気づく人生のヒントに出会えるチャンスなのだ。
ともすると、伯父、伯母、など、近いようで遠い、遠いようで近い人々との接触がますます減りかねない現代の社会。コロナが追い討ちをかける。
高度にネットワーク化された社会は、すでに時代の必須であり、避けられない現実だが、その中にあって、いかに、このような、ネットでは絶対に検索できないような繋がりから得られる生きるヒントを掬い上げるか。
そこが、距離を問い続けている、一つの動機であった筈だ。
心よりご冥福をお祈りさせて頂くと同時に、自らも確実に人生の後半戦に入ってることを自覚している自分に、一体今から何ができるか、自問しつつ、この距離に関するテキスト群に、改めてもう一つチャレンジを込めていきたいと思う。
T伯父、きちんとお礼すらできていませんが、ありがとうございました。