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社長と呼ばれたくない社長

組織のあり方は組織の数だけ存在する。

たから、社長を「社長」と呼ぶことが正しい組織も存在する。肩書を付けて呼ぶことでヒエラルキーが作用し、規範が守られ、組織の秩序が保たれるのだ。

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天の邪鬼かもしれないが、僕は社内で「社長」と呼ばれるのを嫌う。あくまでも内部での話であって、お取引先の方が「佐藤社長」と呼んで下さる事はありがたいことであり、それに恥じないように頑張ろうと思う。


普段の業務の中で「佐藤社長」と呼ばれると、時の流れが一瞬だけ止まったように感じる。たかが呼称、されど呼称。不思議なものだ。

そのように感じてしまう僕は、社長としての意識が低いのだろうか。そう自分に問いかける時がある。社長は社長として、堂々と胸を張っているべきなのだろうか。

僕は独りよがりで、自分勝手に皆と同じ立場・目線になったつもりの勘違い野郎なのかもしれない。正しい例えじゃないかもしれないけど、それは「友だち親子」のような関係だろうか。それを従業員(社員・メンバー)に対して一方的に押し付けるエゴイストかもしれない。


チームメンバーは僕に対して、近づき難い「社長」そのものを感じているにも関わらず、僕の一方的な暴力ともいえるフレンドリーさを煩わしく思っているかもしれない。

僕は、相手からどう評価されるか?など、微塵も気にしない質なのだが、「チームと社長」というテーマについてはよく考えてしまう。

それほどまでに、チームと社長の関係は難しいテーマだと考えているからだ。

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役割としての社長

メタモ(弊社)では「チーム」をとても大切にする。社長という役割をこなす僕にとって、自分の大切な役割の一つに高校野球におけるマネージャー的なモノがあると考えている。

もちろん、時にはビッグピクチャーを描くビジョナリーにもなる。船頭に立って旗を精一杯に振るのだ。それでも業務の大半はチームが良く機能するように尽力する。

そういった点においても「社長」という呼称はどうもしっくりこない。


社長としての僕は、ITベンチャー企業のステレオタイプ的なカリスマ社長とはまるで違う。たまにそういうのを期待される事もあり、その度に申し訳なく思う。

うーん。社長がしっくり来ないのは個人的な資質なのだろうか。


起業家と経営者の狭間

いずれ、どのスタートアップ企業の設立者も、起業家から経営者に変わるときが来る。その時には「社長」と呼ばれる方がしっくり来るのかもしれない。

しっくり来ない間は起業家(事業家)なのだろうか。

僕は経営者に向いていないと思うし、より良い経営者にその役割を渡したいと常々思っている。それは教科書的な株式会社としてのあるべき姿だ。

社長という呼ばれ方を嫌う僕は、いつまでも「事業家」でありたいと思う。未来を描き、それを実現する為に命を燃やすのだ。それが僕にとっての事業家の定義である。


ここまで綴って振り返ると、僕はやっぱり子供なのだと思う。それで良いと思えるうちは、メタモ(弊社)は大丈夫だと思う。根拠はないけれども、自分の心がそう言っているように思う。

子供のような反発心。それが社長と呼ばれたくない社長の本質であるのかもそれない。でも、僕はそれでいい。

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