失敗に寛容になれるか?
タイトル通りです。
前回はなんとも拙い文章で個性について語りましたが、今回は失敗というものについて述べさせていただきます。
失敗、失策、皆人生で一回はしてしまうことです。
一回どころか十回・百回・千回単位でしてしまう人は多いのではないでしょうか。さて、この失敗という代物は何回まで許せると考えていますか?
「仏の顔も三度まで」なんていうから、3回でしょうか?
でも、その前にその失敗を許す許さないを決断する場はどこでしょうか。
職場でしょうか、家でしょうか、学校でしょうか。
しかし、私自身は失敗を許されるという環境に置かれた経験はあまりありません。大抵、どこでも失敗を許されない状態です。
許されない理由は「手間がかかる」「お金が無駄になる」言い換えて、「お金と時間が無駄になる」といったところでしょうか。
では、それを咎めるとして、貴方は相手に何を求めているのでしょうか。レールの上をミスなく走る(=定めたことを適切に遂行する、目の前の仕事をマニュアル通りに、適切にこなすこと)でしょうか。
では、そのレールはどのようにして敷かれているものでしょうか。
大抵の場合は、先人たちが苦労して敷いたものでしょう。その先人たちは失敗なくして、レールを敷いたのでしょうか。
そんなことはないでしょう。
ということは、失敗を許さないというのは、レールを敷くことを許さないということになります。
つまり、今失敗しないように走っているレールが古くなったときに誰もレールを敷き直せないということです。気づけば、レールは古くなって走ることも困難になり、いつの間にか、レールが消えて走ることすらできなくなるのです。
こう言うと、「レールを普段敷いているようには見えない人なら、別にいいだろう」とか、「レールを敷いている光景なんか見たことないような奴に失敗を許す道理はない」とか言う人が決まって現れ、失敗を許さないことを肯定するのですが、どちらも的を射ていません。
まず、そもそもレールを敷くこととレールを走り続けることは全く別のお話なので、レールを走ることをやめさせ、レールを敷かせることに集中させることが必要になります。
そして、レールを敷く際にまず必要なのは、奇抜なアイデアですが、この奇抜なアイデアは温めることには何の価値もなく、表に出して実行することで初めて価値が生まれるものなのです。
では、どのようにして表に出すのでしょうか。
では、仮にあなたが新しいアイデアを生み出したとして、どんな人に話しますか。嫌いな人に話しますか、好きな人に話しますか?話しやすい人に話しますか、話しにくい人に話しますか?
意味もなく逆張り回答を意図的にしないのであれば、好きで話しやすい人に話すでしょう。
だから、失敗を咎めないようにする必要があるのです。
と言うと、突っ込まれそうなのは失敗を咎める行為との相関性ですが、そもそも、失敗を咎めるという行為自体がアイデアマンにとっては、モチベーションの低下へとつながります。結果として、アイデアが出にくくなってしまうのです。
(同じ失敗を何度もしたり、失敗による被害を被るのが嫌なのでしたら、そもそもその失敗者はその場に向いていないか、貴方が使いこなせていないだけのお話であり、責任は失敗者ではなく、貴方や上司が負うものです。)
失敗を咎めるべきでない理由はもう一つあります。
どちらかというとこちらの方が重要かもしれませんが、理由は似たようなものですし、ベタなものです。
失敗を咎める考え方を会社単位でやるとしましょう。チャレンジや挑戦を通じて、アイデアの実現をすることになるわけですが、失敗した場合には失敗者に汚点がつけられ、降格や左遷につながるわけです。
とすると、アイデア実現のためのチャレンジや挑戦というのは、とてもリスキーなものになり、アイデア実現をしない方がノーリスクとなります。
つまり、会社全体で失敗を恐れる体質に変わっていくのです。
「失敗を恐れる→チャレンジや挑戦をしない→アイデアを出さない→既存の延長線上のことだけに執心→気づけば既存の物や稼ぎ頭が陳腐化→でも、チャレンジや挑戦をしないから新しいものも生み出せていない→陳腐化したものにしがみついたまま消え去る」
どれほど、多くの会社がこのサイクルに陥って消えていったでしょうか。会社の体質は1年そこらでは変わらず、下手すれば10年はかかるため、一度染みついた体質はもう二度と変わらないに等しいのです。染みついた体質が間違えていたと気づくころにはもう手遅れ、悲惨な末路を歩むことになります。
大抵の場合、既存の物をなぞる会社というのは、消費者に寄り添う行動もあまりとりません。なぜなら、「消費者に寄り添うというのは既存の物ではできないことが多く、大抵何かしらを新しくする必要があるから」というのが1点。「そもそも、レールをなぞることしか考えていない時点で、消費者のことから頭が離れている、つまり、自分さえよければどうでもいい的発想しか持たれていないから。」というのもあります。
例えば、シャープ。自社テレビへの液晶供給を優先し、他の供給元に供給せず、自社テレビに陰りが見えてきたところで供給元を慌てて探し始めて、結局液晶を供給できない状態に陥りました。消費者をないがしろにした結果の一つですが、供給元が離れたにも関わらず、結局買収されるまで液晶にしがみつき続けました。(その液晶も壁掛けテレビの失敗で左遷された社員が起死回生でどうにか生み出した代物なのだから、皮肉なお話。)
(段落の一部を訂正)例えば、パイオニア。中華製のアンドロイド搭載型カーナビが安価に市場席巻しはじめ、おまけにスマホがカーナビの地位を奪い続けているにもかかわらず、自社開発のマップを搭載したスマホアプリの類を無料で出さず(パイオニアは子会社のインクリメントピーを通じてカーナビのマップデータを自社で開発している、大抵何故か有料)、カーナビもオリジナルOSで動画メディア互換の弱いものばかり作り、その上値段はアンドロイドカーナビの2倍以上でとても高い等、1ミリも消費者に寄り添わない姿勢でカーナビにしがみつきつづけ、結局買収されてしまいました。
(・・・まあ、2社とも会社に値段がついて買収されているだけマシでしょうけど)
これは経営者ではなく、社員全体が共有して認識しておくべきリスクです。社員もその会社が存在しているから食い扶持があるわけで、会社が消えれば人生設計の変更を余儀なくされます。たった一人が失敗を許さないだけでも失敗を許さない体質が出来上がります。悪貨は良貨を駆逐するもので、悪しき体質は簡単に出来上がるため、意識共有を頻繁に行う必要があるのです。
話を戻します。結局のところ、例に挙げた2社は大手企業でありながら、新しいものを生み出せず、陳腐化した昔ながらの稼ぎ頭(既存の物の延長線上のもの)にずっとしがみつき続け、消費者(Customer でも Businnessでも)に寄り添わなかったという点で共通しています。最後の1点はともかく、前半2点については、失敗に寛容的で新たなものを創造する文化さえ醸成できていれば、多少なりとも業績の悪化は防げたはずです。
にもかかわらず、失敗に不寛容で創造(=稼ぎ頭を生み出すこと、レールを敷くこと)ができない状態にされ、稼ぎ頭で稼いでいたら(=敷かれたレールを走り続けていたら)、稼ぎ頭が陳腐化し(=レールが古くなり)、新たな稼ぎ頭を生み出すこともままならずに(=レールすら敷くことができずに)、消えていくことを皆選択してしまいます。どの日本企業もいまだにその状態で停滞しているのが実情です。
「失敗に寛容的でちょくちょく損は出すものの、利益を生み出す事業がどんどん増えていき、いざというときでも食い扶持を創造できる」か、
「失敗に不寛容で損は出さずに利益は生み出せるものの、利益を生み出す事業がなかなか増えず、いざというときに食い扶持も創造できず、一歩間違えたら簡単に消えていく」か、
貴方はどちらを選びますか?
今回はこれまでです。この段落より一つ前の段落だけでも最低限目を通してくれると大変うれしいです。(私は入りの部分で何故何故何故を問いかけるところから始まるので、入りの部分だけではあまりピンとこないと思いますし。)
ところで、失敗には大損が付きまといます。ですが、それを許す人間と許さない人間とでは、圧倒的に前者の方が支持されます。
だからといって、無法地帯が許されるわけでもありませんが、消極的に秩序が守られているのと、積極的に秩序が守られているのでは、後者の方が無法地帯になりにくいでしょう。
損して得取れとは言いますが、何が損で何が得か、判断できる人間が一人でも多く増え、一人でも多くの人がバランスよく行動できることを祈っています。
以上
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