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小さな幸せ3つ

松下友香さんが主宰されている、企画「あなたの小さな幸せ3つ教えて下さい」に参加され、フォローさせて頂いている何人かのnoterさんが、書かれている記事を読ませて頂いて、私も「参加してみようかな」と思い立った。

「小さな幸せ」のフレーズで、すぐに、ひとつ頭に思い浮かんだことが、企画に参加してみようという意欲をかきたてたからだ。

7月初旬から始まっている、山椒採りは、いま、終盤を迎えて、残す畑は2つ。
いま、取り掛かっている畑は、一番広い畑だが、半分以上を採り終えた。

常時10人以上のアルバイトさんが来てくれて、仕事を推し進めてくれている。
土、日などの休日ともなれば、非常勤アルバイトさんも加わり、お盆前は20人もの人数で仕事を締めくくった。


消毒、除草剤散布の仕事の合間に、倉庫での山椒の乾燥処理をする夫に代わり、私がひとり大勢のアルバイトさんと山椒採りをするようになって、5年ほど。

どちらかというと、自分ひとりで、コツコツと農作業をするのが好きな私は、最初は、負担でしかなかった。

私が他人を雇う現場で、仕事を回すのは無理!
その思いしかなかった。

今年から、足腰の状態が悪い夫に見かねて、後を継ぐ決心をした息子が加わり、薬剤散布の役割を息子が担い、夫は倉庫で山椒の乾燥処理、私は畑で山椒採りと、上手く役割が分担され、夫の負担も減り、スムーズに仕事が回った。


そんななか、気付いた私の小さな幸せひとつ。


朝起きて、白湯を飲み、お風呂の水の入れ替え中に、ゴミを庭のドラム缶へ捨てに行き、ヒトツどこかしらをチョコッと掃除していると、お風呂の水を入れ終わるころ。加えて、チョコッと筋トレを終えると、ちょうど洗濯機が止まるころ。


洗濯物をもって、庭に繰り出すと、自然と「さぁ、きょうも仕事がんばろう」と、思っている自分に気付く。


いままで、この時期に、こんなに清々しく感じたことはなかったのかもしれない。


身体の調子がよいこともあるのだろうか、数日続いて、「これって、ものすごく幸せなことじゃない?」と思った。


負担でしかなかった、山椒採りの仕事に対して、一日のはじまりに、こんな思いで挑めるようになるとは思いもしなかった。


ふたつ目。

これも最近のこと。

この4月から社会人として働く娘は、4年前大学に入学と同時に家をでた。

大学の近くで下宿をする娘に、スーパーで、娘を想いながら、夫と一緒に品定めして、仕送りできることも幸せを感じたけれど、この4月からは、独り暮らしをする娘へ、時々食材を届ける。


4月からのことだから、まだ日は浅い。
大学の頃と違い、至近距離で直接届けることができるとはいえども、こちらも忙しい。

買い出しで利用するスーパーよりは、遠いので、なかなか立ち寄ることもできない。

就職したての頃は、心身ともにクタクタなのは想像できるので、実家に帰ってくるよう促したことはないが、よほど独り暮らしが心地よいのか、めったに帰ってくる様子がない娘へ、1カ月に1回くらいは何かしらを届けることができたらいいなと、漠然と思っていた。

娘の誕生月である7月は、特に忙しい。

ことしは天気周りもよく、仕事の休みはとりにくいかなと躊躇する気持ちもありつつ、娘の誕生日周辺には、美味しいものを届けることができたらいいなと気になりながら、その日を迎えた。


誕生日ドンピシャの日、ちょうど週末でこちらの仕事の休みの日とも重なって、夫は娘の自宅へ立ち寄ることを快諾してくれた。


地元で有名な洋菓子店で、ケーキと、娘の大好きなアイスクリームの詰め合わせを買い足し、多少の食材と一緒に、娘の自宅へ届けた。

軽トラのエンジン音で、たぶん娘はすぐ分かったのだろう。

インターホンの音にすぐに反応して、玄関口まで出てきた。


他に誰かしらが、部屋の中でいたようで、持ってきたものを受け取ると、「バイバイ」と対応はあっさりしたものだったが、とても満足した。


娘の心のうちは分からない。


だけど・・・。

娘の自宅を出てしばらくして、なんだかじんわり幸せをかんじた。


娘の誕生日に、親として、こうして届けられること、幸せやな。

思わずこぼした夫へのことば。


実家には戻ってはこなかったけど、大学時代のことを考えると、グンと物理的な距離は縮まって、買ったものをそのまま届けることができる幸せ。


これも、車を運転してくれる夫がいてくれてのこと。
夫婦そろって、こうして娘へ届けることができるのは、しあわせ。

夫への感謝の気持ちと、娘へ「愛情」を届けることができる幸せを、物凄くその時感じた。

お盆にあたる、15日ごろのお昼に顔をだすと言っていた娘。
台風のなか、あり得ないかなと、台風が過ぎ去り、落ち着いたころに、夫が買い出しに行くというから、ついでに娘のもとへ、用意していた手土産の予定だったものを届けに行った。


またもや部屋に誰かいる様子・・・。

前と同じように、玄関で立ちはだかる娘。


今日も、友達、きてるんや?!

うん、明日、顔出すわ。


短い会話ののちに、同じように食材を受け取ると、「バイバイ」と。


帰路に着く車の中、「あの靴、男ものじゃなかったか?!」と、疑惑を向ける夫。


「今度は、靴!くつ!チェックしないと!」だなんて言ったのは、私だけど、まぁええやん!

それはソレ。


また、連れてきてね。いつも、ありがとう。


3つ目は、日常のこと。

うちは、幾度となしに記事にしているが、薪風呂で、毎日同じように焚いていても、気温の変動で微妙にお風呂の加減も違ってくる。

薪風呂を焚くのは、もう長年私のしごとだ。

途中加減を見ながら、薪を足したり、細かな木片で調整したり、時には新聞紙や段ボールで火のもちを良くしたりして、「勘」で焚き上げなければならない。

イチバン風呂に入れる私はラッキーだけど、いわば料理でいうと「毒味」の役割をする。

焚いたつもりが燃えていなくて、水に近いぬるま湯で、それ以上は浸かる気は失せて、早々にでてきた昨晩のような失敗もまれにある。

お風呂からでてきて、適当に焚きなおしておいたが、どんな具合だか分からない。


というように、薪風呂は、今の時代にはそぐわない原始的なお風呂なのだ。


とはいえ、風呂焚きをやって20年以上たつ私の腕もあがってきて、なかなか上手に焚き上げる。


たいていは、ちょっと熱いか、ちょっとヌルイか、そんなところ。


できるだけ早く夕食を食べて、できるだけ早くお風呂に入って休みたい私は、最近は、薪を焚いている途中に入る。

アルバイトさんがいないと早々に仕事を切りあげ、早々に夕食作りに、お風呂焚きにとりかかれるが、今は、定時キッチリまで働くので、お風呂を焚く時間も遅れてくる。

それに、夏場の風呂焚きは水温が高いため、そう時間がかからないし、夏場は若干ぬるくても問題がない。

夕食を食べ終わり、薪を焚き始め、食器洗いや歯を磨き終えて、まだまだヌルイうちにお風呂に入り始める。


外で身体や頭を洗っているうちに、どれくらい、水温がうまく上がってくれるかが勝負だ。


焚き具合は、お風呂に入るまでどんな具合か分からない。


少しヌルメのちょうどいい具合に焚きあがったお風呂に、ザボンにお風呂に入った瞬間、身体がリラックスして、全身の力が抜けるのを感じる。


しばらくは、放心状態・・・。


あまりにも気持ちがいいと、いつもは、数をかぞえながら時間を意識するが、数をかぞえるのも忘れてしまう。


仕事で疲れた身体がほぐされていくのを感じながら、「これは、私へのご褒美?!」と幸せが身に染みわたる。


そして、「私って、風呂焚きの天才やん!」と毎回、自画自賛する。


パターンはイロイロである。
ザボンと入って、一瞬で、ほわぁぁぁぁぁっと、幸せかんじることもあるし、「ゲッ!ちょっとぬるいやん!」と思いきや、計算されたように、ジワジワ水温があがってきて、ジワジワ幸せを感じることもある。


もちろん、「今日はちょっとハズレだな」と感じることもある。
そのときの落胆する気持ちは、計り知れない。


一日の終わりに身体の疲労をぬぐいとるためにも、程よい焚き加減のお風呂は、いかに大切かがわかる。
焚き加減ひとつで、小さな幸せを感じることができるかできないかも、ちがってくる。


その日その日によって、焚き加減が違うだなんて、時代にそぐわないが、それだけに、感じられる幸せもちがうのかもしれない。

なにせ、ドンピシャ心地よいお風呂に当たる率は、100%ではないのだから。


以上が、私の感じる「小さな幸せ3つ」になる。
予想に反して長文となってしまったが、お読みいただいたみなさん、ありがとうございます。

そして、素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました。





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