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私は真面目に生きてきてよかった

私は真面目。

几帳面という意味ではない。

どちらかというと、やり方はズボラかもしれない。

別にそれをしなくても日常生活回るやん・・・てなことは、放っておくし。


世間体ばかりを気にする母に育てられたせいか、とにかくやるべきことはする。

「しない」選択肢はない。

それを物語る古い過去の出来事で思い出すのは、中学生の頃の自分。

陸上部だった。

顧問は、「短距離走」「長距離走」「投てき」のパート別メニューを、生徒に与え、こなすよう指示を出すだけで、部活には顔を出さなかった。

私のパートは「長距離走」。

練習メニューの内容はほとんど忘れたが、「長距離走」なのでとにかくしんどい。

サボっていても先生にばれないので、やらない子がほとんどのなか、私はバカみたいに、ひとり律儀に練習メニューをこなしていたのを覚えている。

「バカみたいに」は語弊があるかもしれないが、とにかく生真面目でサボれない。


だから、OLのときも精一杯、会社に尽くそうと・・・。

事務作業ヒトツヒトツに誠心誠意がんばった。

だから、やるべきことが抜け落ちることはなかった。

取引先のために、営業の人のために、出来ることを精いっぱいした。

取引先からお褒めの言葉を頂いたことを引き金に、パワハラ上司もさいごは、私のことを認めた。


結婚してから、良い嫁になろうとした。


始めて体験した農作業。

すぐにでも一人前になろうと、体力も筋力もないのに、必死に仕事をした。

身体は丈夫だし大丈夫。と。

根気もあるし大丈夫。と。

自分の持っている力以上に良く見せようと頑張りすぎた。

少しでも力を抜けば良かったのに・・・。


真面目に仕事と向き合って、農作業の大変さを思い知った。


私がもっと器用で、力を抜けることは力を抜くことができていたら、
分からなかっただろう。

分かったから、息子が農作業をしてくれることに感謝できる。

可能性は低いかもしれないけど、もし息子に嫁さんができて、嫁さんも一緒に農作業をしてくれることになったら、嫁さんにも感謝できる。

もし農家へアルバイトに行くことがあっても、手を抜かずに仕事もできる。


食事作りもそう。

家族6人分の食事を用意したのは、夕食だけだったけど大変だった。

料理なんてしたことがなかったし、義両親と同居ともなると、手は抜けないと思って、手の込んだ料理は作れないけど、毎日スーパーのお惣菜を使うことなしに、毎日用意した。

メニューを一週間分考えて、買い出し行くのは大変だった。

料理なんてしたことなかったから。

義両親が一緒じゃなかったら「きょうはその辺のもので食べてね」だなんてこともあったかもしれない。


炊飯器のご飯を切らすことはなかった。


義母はそれができない。

実母もできなかった。


もし、義母も実母もしてくれていたら、感謝できただろうな・・・と思う。

そんな嫁さんいたら、「神」・・・だよ?


毎日風呂の浴槽を洗って水を変えるのも、薪で風呂を焚くのも私の仕事。

毎日浴槽を洗って水を変えるのは面倒。

薪で頃合いよく焚くのは大変。

途中で火が途切れて放りっぱなしだと、お風呂はホボ水。

適当に一気に焚くと熱湯で入れない。

季節や気温と相談しながら、頃合いよく毎日同じ加減に焚くのは至難の業。

追い焚きしようと思えば、またひとつ手間が増えるから、その加減も考えないと。


もし、薪で風呂を毎日、同じように焚いてくれる人がいたら、感謝!感謝!感謝!だよ。

絶対、大変だもの。

もし、嫁さんが畑で毎日農作業をしていたら、私は風呂の薪焚きを買って出るだろうな。

絶対、助かるもの。

義母は、風呂の薪焚きを主人に任していたから、そんな考え思い浮かばない。


もし、嫁いできて、畑で不平不満ばかり並べ立てて、仕事に対して真面目に向き合わなかったら、分からなかっただろう、農作業の本当の大変さ。

食事作りも、真面目に毎日作らなかったら、分からなかっただろう、毎日食事を用意することの大変さ。

薪で風呂を焚くのも、季節によって違うけど、毎日同じ時間に頃合いよく風呂を焚くことがなかったら、分からなかっただろう、毎日風呂を焚く大変さ。

トイレ掃除もゴミ捨ても、ずっとコンスタントに続けるのは大変。


全部ちゃんとしなければ分からなかっただろう。

ただただ適当にするのと、ちゃんとするのと、分かる内容も違ってくる。


「やるべきこと」と、私が認識したことは、真面目にしてきたから、何がどう大変なのかよくわかった。


「生ごみ」のバケツを放り出すことも、お風呂の灯油も頃合いを見て追加するのも、もともとは主人がやっていたけど、主人があまりにもブツブツ言うもんだから、私がすることにした。

それくらいなら、時間を工面してどうにかなるかも・・・と。

毎日ではないにしろ、確かにするとなると面倒だ。

ただ生ごみを出すだけ(畑に持って行って放るのは主人の仕事)、ただ灯油をたすだけのことだけど、時間のある時に確認したり、「イマダ!」というタイミングで実行しないと大変。


柿の収穫の時期。

私が家で、まだ保育園に行っていなかった幼い二人の子を見ていて、畑へ出れなかったとき、それまで主人か義父の仕事だった、柿の段バールを折る仕事を買って出た。

ただただ、段ボールを折るだけの仕事だけど、大変・・・。

難しくない仕事だけど、誰かが折ってくれたら、そりゃあ助かるよ。

大変だもの。

柿の収穫の時期になると、私が隙間時間などを利用して段ボールを折る。

10個でも20個でも、折ってくれる人がいると助かる・・・。

私が仮に年を取って畑に行けなくなっても、これくらいのことは出来る。

それも、真面目にやったからこそ分かること。


全部全部、やって当たり前のことかもしれないけど、不器用なだけに大変だった。

「やらなきゃ」の精神で、真面目に取り組んだからこそ、大変さが分かり、そして、人に感謝できるのかもしれない。


もうあんなに真面目に何もかも取り組むことは、ないのかもしれない。

多少要領がよくなったしね。

たいていのことは慣れたし。

手を抜くことも覚えたしね。

若い頃は、どこかで「人のため」という気持ちが強かったから、余計にしんどかった。


だけど、真面目に取り組んできて良かった・・・。


いろんなことが分かったから。

同じことを誰かがやってくれたら、大変さが分かるから、素直に感謝できる。


きのう、生ごみのバケツをみたら、キレイになっていた。

主人も捨てに行った覚えがないという。

そもそも、生ごみを放り出すのは、もう長いこと120%私の仕事。


どうやら、100万年ぶりに義母が捨てに行って、キレイにしてくれたようだ。

私が知る限り、初めてだ。

義母が生ごみを放りに行くのは。

86歳の義母が放りにいくのに、多少重さもあるし大変だっただろう。

昔から義母は1回ドヤ顔で達成すると、それで満足してしまって、次までのスパンが長い。

年々、身体が老いていくなか、初めて生ごみを放りに行って、義母は何を思うのか。

若いものが毎回大変なことをしてくれて、ありがたい

と感謝できるものだろうか。

私は、年相当に身体が老いていくと、自分のことで精いっぱいで、そこまで感謝できないと思う。

むしろ、「ワシが、ゴミを捨てに行ってあげた」のドヤ顔精神の方が、強いのではないだろうかと思う。

自分の身体がある程度、自由が利く、若いうちにすべきことをしてきた人が、自分が出来なくなったときに、初めて感謝できる気がする。

とはいえ、1回分、生ごみを放りに行くのが免除になったのだから、そこは有難いと思うことにしよう。


いちばん大変なのは、続けること・・・なんだけどね。


あれ・・・?!わたし、何を書いてたんだっけ?

義母への不満?!

いやいや、もう何も期待してないですよ。

もう86歳ですもの。

もともと、家事をするような人でもないですしね。

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