巡りめぐって、結局は初心に返った。
いま、やっている仕事は、山椒の荷づくり。
夏に乾燥させておいた山椒の実を扇風機で葉をとばし、種振るい機で、種を振るい、浮いてきた枝を手作業でぬいて、できた商品を金属探知機にかけ、10kgごとに袋に詰めていく。
一日で、およそ7~8袋できたら上出来の作業だ。
最近は、音楽を聴きながら作業をしている。
きのうは、お昼に予定が入って、1日のノルマを減らそうと思ったけれど、途中の休憩を減らしながら、すこし根を詰めてがんばろうと、一日のさいごにセレクトしたのは、私の「元気(カセット)テープ」。
仕事中に、元気がほしいときに、倉庫で仕事をしながら、昔聴いたカセットテープだ。
歌を録音した日時が、「平成13年2月」と記されている。
娘を産んで半年後くらいのことで、わたしが、いろんな意味で一番しんどかった時期だ。
どん底のときに聴いたその気持ちと、今とではちがう。
歌が私の作業を後押ししてくれて、できないと思った通算100袋目の山椒ができたとき、ホロっと涙がこぼれてきた。
ほら!できたやん!
今までだってそうだった。
農作業はいつも自分の味方をしてくれる。
がんばると、その分結果として現れる。
歳もとったし、だいぶ肩の力を抜いて作業をしているけど、どうしても根本は変わらない。
ちょっと頑張っちゃうところがある。自分でいうのもなんだけど。
だけど、その瞬間が嬉しくて・・・。
そう・・・。わたし、頑張ってきたよね・・・。
時代に取り残された、この異空間で。
先日、「わたしがしっくりくる配偶者の呼び方」について書いた記事は、思いのほか、私の気持ちのなかで尾を引いた。
わたしは、「note」内で、配偶者のことを「主人」と称する。
生真面目なわたしが、丁寧な言い方で、公の場では正しい表現の仕方だと思い込んでいた。
だけど、それは、時代にそぐわない言い方だと、分かった。
おそらく今の時代、多くの女性が、その言い方に嫌悪感を抱くように、わたしにも、そこにこだわる心理的背景があるのではないかと、よせばいいのに、この数日間、自分の心をまさぐることになって、どこかしら気持ちが不安定だった。
バックに流れる今井美樹さんの「pride」。
わたしが、以前、記事にしたことのあるくらい、思い入れのある曲だ。
そう、私は、「農家の嫁」として、誠心誠意がんばってきた。
ずっと、ずっと・・・。
スタートは、「農家の嫁」として頑張らなきゃだった。
今回のことで、自分は時代遅れの異空間で居る現実を叩きつけられた、そんな気がした。
そんなこと昔から分かってる。
「昭和の農家」を感じた過去もあったのだから。
だけど、それは、自分はその異空間で頑張ってきたことを、再確認出来た瞬間でもあった。
価値観があうと思って、結婚した相手との距離はとてつもなく遠いと気づいて、呆然とした日々。
「離婚」でも「家庭内別居」でも「仮面夫婦」でもない方を目指すには、まずは私が尽くさなければ。と、こちらから歩み寄った。
時間はかかったけれど、主人がほんの少し歩み寄ってくれたのが分かった。
私にとって、結婚生活に刻まれる、夫婦の関係がより良く進んだ、歴史的瞬間だった。
夫婦は、結婚生活でお互い歩み寄りながら、距離感を少しずつ縮めていくんだと気付いた。
急がなくていい。
少しずつ。すこしずつ・・・。
さいごに、ヒトツに重なり合うことができれば・・・。
その思いと裏腹に、男の人にはかなわない。主人にはかなわない。
どう頑張っても、女性は男性になれないと、もがいた日もあった。
だけど、それを認識したときから、いざとなったら、私が一歩引いて丸く収まるのならそれで良いと確信した。
自分の主張は急がなくてよい。形を変えてあとから主張すればいい。
うちは、自営業。
社長はふたりいらない。
頑固な舅も、田舎を出たことのない姑もいる。
主人と結婚を決めた時から、私が良き嫁。良き妻になろうと志して、嫁いできた。
意思がほころんだ時期もあったけど、根本はそこにあったから、今までやってこれた。
いつだって一歩引いた立ち位置が、「主人」と呼ばせているのかもしれない。
だけど、それが、私の「pride」。
いま、私が、「主人」のことを「夫」と称したら、ぜんぶ壊れてしまう。
これからの自分だって、どうなってしまうのか分からない。
その「思い」が、その「プライド」が、私をずっと支えてきたと言っても過言ではない。
私が「夫」と称することが出来るときがくるのは、「舅」や「姑」を見送ってからでもいいし、結婚生活を終えるときでもよい。
と、気持ちがまとまったところで、「愛は勝つ」が流れてくる。
「心配ないからね」と、やさしい歌声が背中を押してくれる。
そう、「愛は勝つ」!
がんばりましょう!と、後片付けは、はかどる。
そう。仕事だから、がんばりましょう!
時代もまわっている。
あのときは、倒れた旅人になった気分で聞いていたけれど。
「あんな時代もあったね」と笑ってはなせるようになった。
そう!その調子!人生、まだまだこれからさ♬
主人を想いながら、独身時代のわずかな遠距離恋愛の時期に、歌ったこともあったかしら。
気付けば、後片付けはすっかり終わっていたのに、座り込んで、涙をホロホロ流しながら聴きこんだ、Someday。
主人が、いちど歌ってくれたサムデイ。
私は、そのとき、初めてこの歌をしった。
私が主人のことを、まるまる分かっていると勘違いしていた独身の頃。
意外にも上手に歌ってくれた主人に、ますますのめり込んでいたのかもしれない。
だけど、そう、いつか!と、志も新たに誓ったあのころ。
主人もきっと同じ思いを張り巡らせながら、歌ってくれたと思う。
私にとって思い出の曲とは、主人は露知らないだろう。
この歌を聴きながら、いつか!と頑張ってきた。
30年たらずの結婚生活で、いろいろあった。
いろんな経緯を踏んで、私の結婚生活、今では「我慢」だとか「忍耐」だとか思うようなことはなくなった。
自然体でいまの自分を受けいられる。
それに、年数がたつほど、実は、主人は私の手のひらで転がっているのかしら。と感じることもある。
主人に言わせると、「そんなわけないやん!」らしいけど。
私が変わることによって、主人もあのころと違って変わっている。
変わらないと思っていたのに、わずかかもしれないけど、変わっている。
私の手のひらの中で。
閉ざされた空間でも、少しずつ自分の思うように、世界を変えている実感もある。
そんな私は、案外したたかかもしれない。😜
すこし、賢くなったといっていい。
「主人」と称するのは、自分自身への戒めかもしれない。
上手くいかないときは、一歩引いて考える。その場はそれで収まることが多い。
その代わり、自分の思うように世界を変えたければ、別の術を考えればよい。回り道だって全然よい。
主人はたぶん分かっている。
私が相当根気強いことも、他のだれかが嫁いできていたら、こうも長く結婚生活は続かなかったことも。それ相当のことを口にしたこともあるし。
さいごに、「ありがとう」と、言ってもらえればそれでいい。
今回コメントを下さったクリエーターさんは、私のことをほぼ知らない人だった。
悪気もなかったのだろう。その人ご自身にも、何か心理的背景がおありだったのかもしれない。
長いつきあいのあるクリエーターさんなら、「時代遅れね」と思いながらも、配偶者のことを「主人」と称することを許してくださると思っている。
「note」の背景には、皆それぞれの人生が隠れている。
「note」のなかでも、自分軸で生きていこうと強く思わなければ、書きたいことが揺らいでしまう気がして不安な気持ちを残しつつ、書き終えて、少しすっきりした。
元気のない人、聴いてみてください!元気がでるといいね。