「自分が可哀そう」からは、何もうまれない。
前に、義母が言ったことがある。
わしは、若いころ、実家へ帰ると兄弟が、「〇〇ちゃん(義母の名前)は、可哀そう」とよく言ってくれた。
と。
義母の兄弟は多く、今でも特に姉妹の結束は強い。
たしか、主人と義父のことを話題にして話しているときだった。
なんかよく似てる。実母と。
実家の母も自分のことが可哀そうで、苦労をしたとか言っていた。
義母も実母も、結婚してそれなりに苦労したのだろう。
結婚しての苦労は、誰でもある程度はつきものだろう。
価値観のちがう他人との結婚。
独身の頃とは、環境のちがうところで生活を送るのだから。
だけど、可愛そう・・・という表現は、違和感を感じた。
私自身、結婚して、何度となしに泣いた。
前にもう進めないかもしれないと、希望を失ったこともあった。
だけど、自分のことを可哀そうとは思わなかった。
悲しみに、打ちひしがれることはあっても。
義母の場合は、あくまで、可愛そうと言ったのは周囲の人間だけども、自分のことを可哀そうと思っているように、私は聞こえた。
だから、義父のこと含め、結婚生活の過去のことに関して、非難するようなことを、言ったのだろう。
さも自分には悪いところは、なかったかのように。
義母が同情を引くような言いぶりで、そのことを話したとき、キョトンとしたのが、私の当時の心境だ。
自分のことを可哀そうだなんて思ったこと、少なくとも大人になってからはないな・・・と。
「可哀そう」は小さな子がこけたときに、「痛かったね。可哀そうに」と声をかけるイメージがある。
それに、自分が可哀そう・・・は、他人に原因があって、上手くいかないことが、自分に寄りかかっている風に、私は感じる。
自分が可哀そう・・・だなんて思っていたら、成長しながら、進んでこれなかった。
冷静に自分を省みれなかっただろう。
主人との関係も、より良い方向へいかなかっただろう。
だけど、どうだろう。
もし私に、普段から意思疎通のある身内がいて、私の愚痴を聞いてくれて、過剰に「可哀そう」といえば、私は自分のことを可哀そうだと思っていたのかもしれない。
私は自分のことを可哀そうだと思わなかったから、自分を省みることができて、成長できた。(まだまだ未熟だけど。)
義母や実母の普段を見ていると、そこが足りない。
(実母とはほぼ疎遠だけど。)
私にとって、義母も実母も、自分がいちばん可哀そうで、いちばん苦労していると思っている人だ。(主人も、それは同じように言っている。)
だからかな・・・。ここの両親も、実両親も、私には「仮面夫婦」に見えることがある。(実父はもう亡くなったけど)
もちろん、義母だけが、実母だけが悪いとも思わないけど、どちらかが歩み寄らなければ何も変わらない。
歩み寄るには、どちらかが変わること。
どちらも、「自分は悪くない。相手が悪い」と高を括っていては何も変わらない。
どちらかが先に変わると、夫婦の関係も変わっていく気がしてならない。
少なくとも私はそうだった。
自分が変わると、相手も少なからず変わる。
自分が可哀そうなままでは、何も変わらない。
それは、結婚生活のみならず、すべてのことにおいて言えることだけど。
だから、もし娘が結婚して、嫌なことがあって嫁ぎ先から帰ってきても、「可哀そう」とは言わない。
手足の出るDV、ギャンブル、悪意のある借金など、私独自の基準でアカンと思ったら、全力で嫁ぎ先へ帰るのを止めるけど、その他のことで帰ってきて、尚且つ、まだ娘が結婚生活を続ける意思があるのなら、
「可哀そう」の代わりに、背中を押せる前向きな言葉で送り出したい。
義両親とは、せめて敷地内同居の結婚が、前提だけど。
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