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事実は小説より奇な人の話【第1回】 ヘルマン・マイヤー(アルペンスキーヤー 長野五輪金メダリスト)編

私も最近はやってないのですが、小説書いて賞に投稿したりとか、文章系の創作をやっていました。
が、どんなに創作で頭をひねっても、その想像の斜め上を往くとんでもない人って現実にいるんですよね。

そういう人の話を書いていきます。
第一回はアルペンスキーの選手、スキー王国オーストリアの大エース、ヘルマン・マイヤーです。


ちなみに昔、togetterでこの人の話をまとめたら、編集部イチオシをいただいたことがありました。
今回はその話の焼き直しです。

で、ある程度の年齢の方ですと、ヘルマン・マイヤーというとこの映像を思い出すのではないでしょうか?

大クラッシュのショッキングな映像ですので、苦手な方はご注意ください



ちなみにこの大転倒した種目は、アルペンスキーの中でも1番速度が出る種目です。滑降と言って、最高で140km/hとか出ますね。

このクラッシュの時点でも100km/hくらい出てるはずです。

ついでに言うと、アルペンスキーのコースというのは、何人滑ってもコースが荒れないように、水巻いて凍結剤まいて、氷の1枚板みたいな感じにガッチガチに固めるんですよね(それでもコース荒れるけど)

要するにこの映像は、時速100㎞/hで吹っ飛んで、数十m空中を舞って、ガッチガチに固められた氷の上に叩きつけられているリアルな現場の映像です。それでも止まらず、防護ネットを超えて行ってるけど。

実際にこの後、コース脇までヘリコプターが来て、病院まで緊急搬送されて処置されています。

まあ、「俺だったら死んでるね」というマジでヤバい事故現場なんですが、ヘルマン・マイヤーの場合は三日後に別の種目で金メダル取ってます

自分で書いておいてなんだが何言ってんのかわかんねえなこれ

まあ上記togetterの※欄に有ったけど、緊急搬送のヘリまで自力で歩いていく時点でドン引きだけど。


このこともあって、ヘルマン(Hermann)というファーストネームと、映画ターミネーターをかけて、ハーミネーターというあだ名がつけられました。
不死身の超人とかとも呼ばれましたね。


このヘルマン・マイヤーですが、幼少期に体の弱さと持病から、スキー選手として失格の烙印を押され、競技の場を去っています。

そのあたりから少しずつ。


幼少期~最初の挫折

ヘルマン・マイヤーは1972年、オーストリアのアトミックというメーカーでスキーを作る職人をしていたヘルマン・マイヤーの子として生を受けています。
父ヘルマンからは自身と同じヘルマンという名前を与えられています。

余談ですがヘルマンが使用するスキー板は。このアトミック社製のものを2007年まで使い続けています。

彼は幼少期から気管支に持病があり、体が弱かったそうです。
そんなヘルマンに、父ヘルマンはオーストリアで最も人気のあるスポーツ、アルペンスキーを始めさせます。

ヘルマンはスキーに熱中し、弟 アレキサンダーとともに、冬場は連日スキーを滑り続けていたそうです。
(ちなみに弟 アレキサンダー・マイヤーは、スノーボードの選手になっています)

熱中して日々滑り続け、いつしか大会で成績を出すようになり、地元の期待の星として国立スキーアカデミーに入学します。

しかしながらアルペンスキーの世界最強国家オーストリアのアカデミーとなると、才能あふれる子供たちばかり。

当時のヘルマンは気管支の持病に、生来の弱い体質から体も出来上がっておらず、さらに膝にけがを負うということで「才能無し」と評価され、国立スキーアカデミーを放校処分になっています

それでもここまで応援してくれた地元の人たちの期待を受け、さらに自身もスキーが好きで滑り続け、地方大会レベルでは成績を残します。

そこで更なる不幸。父ヘルマンが作業中に重傷を負い、仕事をできない状況に。
家族を支えるため、今度こそ選手の道をあきらめ、仕事に就くことを余儀なくされました。


雌伏~開花

ヘルマンはレンガ職人として日々汗を流すことになりました。
一方で冬場は、父の経営するスキー学校で、指導者としてスキーを続けていました。

数年を経て、レンガ職人として鍛えられた肉体は、かつての虚弱さなどみじんも感じさせない、プロレスラーのような強靭なものになりました。

一方、スキー教師として勤めるうちに、自信の基礎技術を見直す機会を得ました。
また、新雪や不整地を滑る機会も多く、荒れたゲレンデへの適応力も上がっていきます。

一番最初のクラッシュシーンでゲレンデが荒れないように凍らせるという話をしました。
アルペンスキーのコースは最初はきれいな整地なのですが、何人もすべるうちにだんだんスキーのエッジで掘れていき、ぼこぼこで滑りにくくなります。

スキーの順位は滑る順番である程度決まるという現実があります。

しかしながらヘルマンは、その適応力と、圧倒的なパワーでゲレンデをねじ伏せることで、スタート順が遅くなってもその実力を発揮することを可能としました。

その後はいろんなレースに出て、大会荒らしとして有名になっていきます。

そんなヘルマンに幸運が舞い込みます。少年時代の恩師がこのころ、オーストリアスキー連盟の地方責任者になっており、この指導者に全国大会の地方代表へと抜擢されます。

その全国大会で、遅いスタート順から圧倒的な滑りを見せます。

アルペンスキーにおいてオーストリアは世界最強。オリンピックで金メダルを狙える選手が各種目10人は軽くいるという状態で、五輪代表は1国につき3人。五輪オーストリア代表になるのは、五輪で金メダルを取るよりもむつかしいといわれるほどの層の厚さ。

そんな選手がそろう全国大会で、遅いスタート順から14位に入るという快挙。

それを見ていたオーストリアナショナルチームのヘッドコーチに、無名な選手としては異例中の異例の大抜擢を受け、ナショナルチーム入りします。

当然すぐにワールドカップには出られませんが、やはり大抜擢の前走としての出走をし、当時のチャンピオンであるイタリアのアルベルト・トンバと遜色のないタイムをたたき出します。

この結果をもって、1996年、24歳にして自らワールドカップへの出場枠をもぎ取ります。


そして頂点へ

オーストリア代表チームは幼いころからエリートコースを歩んで、仲間たちとも死闘を繰り広げて生き残ってきた選手の集まり。

そこに突然無名から抜擢されたヘルマンは、彼らには「コーチに媚びをうって出てきた成り上がりもの」と見えたようです。

ヘルマンはチーム内で完全に孤立していました。が、それにも構わずトップへと突き進んでいきます。


そして1998年。一番最初に話に出した長野オリンピック。

滑降でどうみても普通命に係わるやろという大クラッシュのわずか三日後、スーパー大回転で金メダルを獲得。さらにその後、大回転でも金メダルを獲得し、五輪一大会で金メダル2枚獲得、さらにはワールドカップでも総合優勝という栄華を極めます。

翌1999年はほかの選手からの徹底マークで死闘を強いられ、総合優勝を逃す。

しかしその翌年、2000年は圧倒的な強さでワールドカップ総合優勝。

さらに翌2001年、圧勝した前年とすら比較にならない、完全なる独走で2年連続のワールドカップ総合優勝を決めます。

この時点で、現代的に言うとアルペンスキーにおけるGOAT論争にその名を連ねます


そして転落へ

一方で、頂点を極めるまでの過程で、予兆はありました。

一度は地獄を見て、それでも自らの力で勝ち上がっていたヘルマン・マイヤーですが、その態度は完全に増長していました。


その悪名は枚挙に暇なく

  • マスコミに悪態をつく

  • インタビューでの舌禍事件

  • 暴力事件

  • サインをもらおうとするファンを無視

  • 試合前日でも構わず乱痴気騒ぎ

  • ルール違反からの出場停止

等々。

ヘルマンの前の世界チャンピオンであるアルベルト・トンバもこういう問題行動で有名だったけど、イタリア人らしい陽気な性格とファンを大事にする姿勢から、人気はすごくあったんですよね。

でも陰気なヘルマンはダメでした。


そんな感じで批判を受ける中、2001年の夏場に事件は起きます。

当時、私の知り合いにアルペンスキーの日本ナショナルチームスタッフが居たのですが、その人からの第一報は「ヘルマン・マイヤー死亡」「ヘルマン・マイヤー、大事故で片足切断」という二つのニュースが錯綜したものでした。

実際は、バイクを運転中に、交差点で信号無視したトラックが飛び出してきたため、かわそうとして転倒。
そのまま水路にバイクごと転落して重症、というものでした。

現実問題として、ハーミネーターことヘルマン・マイヤーその人でなければ、死ぬかよくても片足切断というレベルの事故だったそうです。

何とか大手術の末、一命はとりとめ、足も失わずに済んだものの、選手生命はもはや絶望的でした。


再びの復活

いくらヘルマン・マイヤーでももう駄目だろうと私も当時思っていたのですが、1年以上の時を経た2003年、ワールドカップの戦いへと帰還。

復帰戦は54位という低い順位から始まるのですが、徐々に順位を上げていき、ついに表彰台の中央に返り咲きます。

そして2004年、ついにワールドカップ総合優勝を果たします。


事故からの復帰後は、かつてからは信じられないほどマスコミ対応もよくなり、またファンへの対応もよくなっていました。
ワールドカップを観戦している少年たちに「一番サインをもらいやすい選手はボディ・ミラーとヘルマン・マイヤー」と言われるようになるほどの変貌だったそうです。


終焉

その後は2006年のトリノオリンピックで銀メダルと銅メダルを1枚ずつ獲得。

ワールドカップでの勝利はしばらく遠ざかっていたものの、2008年に久々の勝利を挙げています。

34歳という、アルペンスキー選手としては高齢。衰えを見せつつも再びの上昇曲線を描き、翌2009-2010シーズンへ向けトレーニングをする中。

ヘルマンの脳裏に、このいい調子のまま、勝ちを狙える状態のまま、現役を終えたいという思いがよぎりました。

こうしてシーズン直前、2009年の10月にシェーンブルク宮殿で引退会見が行われました。

あの不死身の超人が、記者会見で引退の理由を聞かれ、上記の理由を話した後に目から涙をこぼすのを見て、その光景を見ていた人たちはついにハーミネーターの冒険が終焉を迎えたことが現実であると、思い知りました。


国からスキーヤーとしては見捨てられた少年が、時を経て自身の一存で引退すら決められない存在へと至り、シェーンブルク宮殿での引退会見を強いられる。これが不死身の超人と呼ばれた男の旅路の全貌でした。


最後に

ヘルマンマイヤーの遺した成績は

  • ワールドカップ通算54勝(歴代3位)

  • オリンピック 金メダル2枚 銀メダル1枚 銅メダル1枚

  • 世界選手権 金メダル3枚 銀メダル2枚 銅メダル1枚

  • ワールドカップ種目別優勝 10回

  • ワールドカップ スーパー大回転の種目別優勝 5回

見ての通り、アルペンスキーにおけるGOAT論争に加わるのに、何一つ異論のない記録を残しています。

それでもヘルマン・マイヤーの一番恐ろしいところって、たぶんリアルタイムで見ていた人たちは同意してくれると思うんですけど、GOAT論争に加わるだけの記録を残しながら、記録よりも記憶に残る選手であることなんですよね。



というわけで長くなりましたが、小説よりも奇な実在人物の話をお送りしました。

第2回は元プロ野球選手の星野伸之投手の話を予定しています。

またその他に、辞世の歌の魅力についても解説する記事を執筆しようと思っています。


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