アイスランドから見る風景:vol.8 ”FALLING MAN” 世界が共有する9/11の記憶ー書評①
ひとが過ぎ去った時間に思いを馳せるとき、脳裏に浮かぶ出来事には2種類あるように思う。ひとつは個人に還元できる実体験、そしてもうひとつは世代が共有したメディアを通した体験である。個人レベルの体験は、実際に自分の身の上に起こったことなので、良きも悪きもその人を形成する一部となる。それに比べると実体験ではないニュースは、時間の経過とともに色褪せて、その内容は曖昧になってしまうことが多いものだ。そのうちに、後日談や自分の想像と混ざりあって、どこまでが本当に起こったことだったのか、記録を探して確かめる必要に迫られたりもする。
しかし稀に、個人と集団の体験の境が曖昧になり、意図せずに自分と世界の記憶が融合してしまうことがある。それがわたしにとっては、ワールドトレードセンターの崩壊だった。しかもその記憶の同化は、2001年の事件当時に起こったのではなく、事件から20年経った2021年の秋に起こった。そしてその体験を自分の中で消化し、こうして文章が書けるようになるまで、さらに2か月を要した。
2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件のひとつ、ニューヨーク市の世界貿易センターの爆破は、多くの人間にとって、遥か彼方の向こう側の大陸で起こった悲劇だという認識ではないだろうか。若い世代、特に西暦2000年以降に生まれた子供たちには、この事件はアクション映画やテレビシリーズのプロットと、あまり大差はないだろう。しかし、当時すでに20歳を越えていた世代は、このニュースを聞いたとき、自分がどこで何をしていたか、鮮明に思い出すことができると思う。少なくとも、わたしはそうだ。それほど、煙をもうもうと噴き上げるツインタワーとその後の崩壊のイメージは、自分のそのときの居場所と共に、強烈に頭の中に焼き付けられた。
その事件から20年が経った今年の6月、偶然にもアメリカの小説家ドン・デリーロの『堕ちてゆく男』(原題: FALLING MAN/2007年/新潮社/上岡伸雄・訳)を読み始めた。本自体を手に入れたのは、2年程前になる。わたしには妙な性癖があって、購入してもすぐにその本を読むことは珍しい。著名な文芸作品になると、さらに長く寝かされることが多い。大作に取り組む心構えができないうちにページを繰ることが、作者に対して何だか不謹慎な気がして、抵抗があるのだ。ただ、気軽に読み始められなくても、1冊を読み通すのに通常はたいして時間はかからない。しかし、今回は途方もなく難儀した。
登場人物はそれほど多くない。しかし問題は、彼らのシャッフルされた断片的なエピソードだ。誰が何を体験しているのか、その出来事がいつ起こったのか、それらを読み解くのに時間がかかり、遅々として読書が進まない。しかも感情を移入する前に、場面が変わってしまう。言ってみれば、たくさんのスナップ写真を渡されて、それを1枚ずつ見ているようなもどかしさだ。写っている人たちを見知ってはいても、時系列がよく分からない。同じ人間が写っているのに、撮った角度から別の人間にも見える。人にも時間にも一貫性がなく、理解をしたくても、何を足場にしたらいいのか分からない。しかも、登場人物同士の互いの評価や理解も刻々と変わる。あまりにも、とらえどころがないのだ。
そうするうちに、作品の3分の1を残したまま、同時多発テロ事件の20年追悼イベントのニュースを耳にするようになった。そして、あの有名な写真が再びあちらこちらのメディアに再登場し始めた。そう、写真家リチャード・ドリューが撮った『The Falling Man』だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Falling_Man#/media/File:The_Falling_Man.jpg
この写真は、テロ事件勃発時にたまたま現場に居合わせた報道写真家ドリューが、崩壊するワールドトレードセンターの北の棟から飛び降りた人たちの瞬間を撮影したものだ。悲惨な現場で彼が撮った数多くの写真の中で、一番有名なのが前出のものだ。翌日9月12日にニューヨーク・タイムズの一面を飾り、その後世界のメディアを席捲した1枚である。どこかで目にした覚えのある方も多いだろう。後日タイム誌の『世界を揺るがした100枚の写真』の一枚に数えられた。
死にゆく人を撮影するという行為の、道義的な意味をここでは問わない。ただ、予想もしなかった出来事を、絶妙な構図とタイミングで捉えた、写真家としての彼の才能を疑う余地はない。しかも、この写真は映像に収められた一瞬だけを物語るものではない。写真の被写体になったこの人に、過去何が起こったのか、そしてこれから何か起こるのか、すでに私たちは知っている。本来写真とは、その瞬間を永遠というカプセルに閉じ込めるツールである。しかしこの写真が切り取った一瞬は、その瞬間だけに終わらず、その一点を含んだ前後の時間の流れも内包するような、そんな永続性を持っている。報道写真と芸術写真は本来ジャンルが違うものだが、その垣根を越えた一枚であることは明白だ。
わたしはその後、一旦本を脇に置いて、ドリューの幾つかのインタビューを観た。フォト・ジャーナリストという職業について、またこの写真を撮ったときの彼自身の心境、そしてこれら一連の写真が引き起こしたアメリカ人の、しいては世界のリアクションなど、興味深いことが多く語られていた。この写真を『The Falling Man』と命名したのは、ドリュー本人ではなく、2003年9月にアメリカ版エスクァイアに記事を書いたトム・ジュノッドらしい。こうして、この名前がニューヨークで起こった航空機でのテロ事件そのものの代名詞となった。デリーロもそれを意識して、本のタイトルに選んだことは明らかである。
ただこの時点では、この悲劇を”体験”と呼ぶには、わたしの中でまだ心理的な距離があった。それが突如として変化したのは、『Life under Attack』という2021年9月に放映されたドキュメンタリーを観たときのことだ。
この1時間半のドキュメンタリーは、テロが起こったその時間にマンハッタンにいた人たちが撮影した録画を、時系列に繋げたものである。レポーターも出て来なければ、各場面でのコメントもない。登場人物も俳優ではなく、ニューヨークで仕事や生活をしている、普通のひとたちだ。現場で救助活動をしている消防士たち、警察官、FBI捜査官や報道関係者はいても、彼らの目線は冷静に職業に従事するプロフェッショナルのものではなく、目の前で起こっていることが理解できずに、当惑しているわたしたちと何ら変わるところはない。そのために、このドキュメンタリーを観るひとは、マンハッタンのど真ん中にいきなり投げ出され、あたかも自分自身もテロの目撃者になったかのような錯覚を起こす。
炎上している世界貿易センターを見て、何らかの事故が起こり、それがタワーの火災に繋がったと思うのは、自然な心理であろう。しかしその冷静な観察者の視点が変わるのは、炎上する建物から避難できなかった人たちが、次々と飛び降りていく姿を目にしたときからだ。死が目に見える形で姿を現した途端、わたしたちの客観性は失われる。
北の棟から白い煙がたなびき、炎が見え始めて間もないおよそ20分後に、南の棟に2機目が突っ込むのをわたしたちは見る。そのあまりの非日常さに、それがいったい何を意味するか理解することはできない。ニューヨークばかりか、ペンタゴンでも同じように旅客機を使ったテロが起ったことを、その後のニュースで耳にする。世界の終わりに恐怖したニューヨーカーたちは、さらにその後、2つの棟が短時間のうちにたて続けに崩れ落ち、世界を白い塵埃で塗り替えていくのを目の辺りにするのだ。
画面を見ているわたしたちは、2001年9月11日8時半から2時間のマンハッタンでの出来事を、手を加えていない生の映像から”体験”していく。そこには、身体的かつ時間的な距離はもはやない。わたしたちは、世界が粉々に崩れていく、まさにその場にいるのである。
このドキュメンタリーで当時の状況を目撃したわたしは、その後小説を最後まで読み通した。そして、なぜデリーロが、9/11を題材にした小説をこのような形式で書いたのか合点がいった。一見脈絡や前後のないエピソードは、粉々に砕けた日常生活の断片なのだ。これまで甘受していた日常の脆さと価値の曖昧さが、破片になってばらばらに散らばっている。信じていた現実を再構築するのは、欠片を繋ぎ合わせる行為に等しい。しかし仮に破片をすべて見つけることができて、再生されるべく全体像は、すでに失われてしまっている。そもそも、そんなものがあったかどうか、その記憶さえ曖昧になってしまったのだ。それが、主人公たちの置かれた立場だ。
彼らと彩を異にするのは、各章の題名になっている3人の男たちだ。彼らは主人公たちの生活と直接関わるわけではなく、袖が触れたと思った途端すれ違っていく、掴みようのない人物たちなのだが、彼らの現実は外的な世界の崩壊に揺らぐことはない。なぜなら、彼らはすでに死と向かい合い、自分たちを含めた人間が死すべき存在であることを知っており、死をすでに内包してしまっているからだ。外部の世界にある死は、内に死を秘める人間にはもはや恐怖の対象にはならない。
デリーロのこの小説に、わたしは政治的批判や寓意を読む取ることはできなかった。進歩と発展のスローガンを武器に、その正当性を疑うことのなかったアメリカ社会に、イスラム教徒の血と肉の鉄拳が振り下ろされたと言ったような、単純な2極化した世界観はここにはない。デリーロの世界は、もっと人間の根本的な本質に訴えてくるものだ。わたしたちの生の一瞬一秒とは、実は死に向かっての行進そのものであること、そしてその事実は日常というカモフラージュに隠れて見えず、日常が完膚なきまでに叩きのめされて初めて姿を現すものであることを。
タワーから堕ちていく人たちは、他人ではない。わたしたちひとりひとりが、生きている以上、今この瞬間にも『FALLING MAN』そのものなのである。写真家ドリューが、ひとはあの写真の人物に自分の姿を重ねるものだと言ったが、デリーロの意図するところは更に奥深い。
小説の最後の場面は、小説の振り出しに戻る。主人公キース・ニューデッカーが体験した、外的世界の崩壊は凄まじい。その恐ろしい世界から肉体的には生還し、生活も徐々に日常に戻っていくように見える間も、キースの内面は少しずつ壊れていく。2度目に読み終えて、また小説の最後の場面に辿り着いたとき、キースを通してわたしたちはこれまでの見知った自己を喪失していることだろう。キースのように、あちら側に近くはなっても、わたしたちは、あの3人の男たちにはなれない。少なくとも、今はまだ。
ドリューの写真が『The Falling Man』と命名されたのに対し、 デリーロがこの小説を『FALLING MAN』と名付けたのは興味深い。大文字、小文字、定冠詞、冠詞なしの違いで、同じように見えるタイトルでも、異なる意味合いを持つ。言葉とは、まさに深淵で、かつ妙なるものである。