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アイスランドから見る風景:vol.6 ラビット・ホール

レイキャヴィーク市は、幾つかの住宅地区に区分されており、隣接する地区の間には住居のない自然エリアが設けられている。その区画整備は、新しく都市開発された市の裾野部分、つまり街の中心から離れた、これまでは住宅が建てられていなかった場所において、特に顕著である。もともと手つかずの自然があった場所を住宅地に変えるのだ。私有地のまま残された土地はあるにせよ、自然保護の立場を念頭に、市が都市開発をしていることは明らかである。

この自然エリアは、その地域に住む住民にとって、身近に自然と親しむことができる憩いの場だ。住宅地区の周りをぐるりと囲むように残された自然地区へのアクセスは、歩いてほんの5分から10分程度、違う地区のエリアへも、車で移動すれば10分もかからない距離である。エリアによって、残された自然の面積や形態も異なる。整備された歩道やサイクリングロードだけの場所もあれば、その先に人の手が入っていない自然がそのまま取り残されていることもある。

わたしはこれらのエリアを、ラビット・ホールと呼んでいる。a rabbit hole(うさぎの穴)ーこれはあの有名な『不思議の国のアリス』(1865年/ルイス・キャロル)に出てくるラビット・ホールと同じだ。わたしにとっては、このエリアは異空間に通じる入り口に当たる。足を踏み入れるやいなや、どんなものに遭遇するかは分からない。アスファルトで舗装された道から外れれば、後はどんな不思議が起こってもおかしくはない場所なのだ。実際、アイスランドの自然は、どんなに小さなものでもマジカルである。心静かに耳を傾ければ、それらはたくさんの話を聞かせてくれる。囁くような小声で語りかけてくれることもあれば、足を止めずにはいられないような大きな力でその存在を示すこともある。

この場所が単なる自然エリアからで”ラビット・ホール”になるまでに、実は子育てでの格闘があった。

わたしの二人の息子は、5才年が離れている。子供時代の5年は、肉体や精神の成長からしても大きな差があり、親はその年齢に応じて、子供に適切な対応をする必要がある。それはそれで充分難易度は高いのだが、さらに事態を難しくしているのが、わたしたちのいる時代の変化の速度だ。それを考慮しながら子育てをしないことには、親も子供も時代に取り残されてしまうのだ。

例えば、上の子には携帯は高校までは持たせなかったのを、下には中学校で渡す羽目になった。自分専用にコンピューターを買い与えて部屋に入れたのも、下の子のほうが3年ほど早い。クラスの皆が持っているのに、自分は持っていないというのは、この年齢の子供には屈辱的なことだ。うちの家には独自のルールがあると言うような、教訓めいた押しつけは、この時代の子供たちには通用しない。現代の子供は、クラスメイトばかりではなく、常に世界と情報交換をしているのだ。

PCが部屋に鎮座するようになると、映像に頼らずに本を読み、想像力を養う時間など失われてしまう。読むということは、文字を見て頭の中でそれを言葉に変換し、その意味を理解するだけでなく、さらに前後の脈絡を念頭に置きながら筋を追うという、かなりの労力を必要とする行為だ。それに比べ、タブレットや携帯などの端末の画面は、脳を酷使せずに、目から頭へと情報を伝えることができる。考えることが必要ではないので、楽で、楽しい。しかも残す印象は強烈で、場合によっては疑似体験にさえなりうる。

子供の想像力を養う、という点から、わたしは窮地に陥った。このままでは、下の子は、垂れ流された一元的な情報を消費するだけの人間になってしまう。切羽詰まったわたしは、下の子にこう提案した。車に乗ったら、窓から外を見て、一つでもいいから、いつもと違うことを見つけて、ママに教えてよ。そして、どうしてそれがいつもと違うか、一緒に考えてみよう。その理由は、正しくても、正しくなくてもいい、知識に裏打ちされたものでも、思い付きやデタラメでもいい。とにかく、違うものを見つけようと。

初めはそれほど気乗りしなかった息子も、そのうちに反応するようになった。道路沿いの照明灯に、点いたり消えたりする時間があるのを知った。街灯の上に留まっている鳥の種類が、季節に応じて変わるのを見た。番号やランダムなアルファベットのプレート以外に、固有名詞や言葉のプレートを付けている車もある。そんなこと、していいのか。いいなら、誰が許可するのだろう。あの車の後ろのバンパーが凹んでる。いったい何があったのかな。

こんな会話は、退屈を紛らわせる役割も果たす。買い物、お稽古ごとの送り迎えなど、車での移動の行先はいつも大抵同じだ。旅行で長い時間の移動するときにも、このゲームは役に立った。わたしが子供のときは、しりとりや黄色のフォルクスワーゲンを探した覚えがある。子供は、面白ければ一緒にやるものだ。そのうちに、意識してゲームをしている感覚もなくなり、お互いに何か気が付いたら、それを自然に指摘するようになった。何かを一緒に見て考えるというのは、それが取るに足りないことでも楽しいものなのだ。

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そのうちに、わたしは、子供を近場の自然散策に引っ張りだすことを考え始めた。車窓からの風景を延長させるには、もってこいの場所だ。そこで、これらの自然の中には、普段は姿を隠して見えない、いろいろな不思議な生き物が住んでいる、と息子の興味をひきそうな作り話をした。自然の中を散歩する、では子供は動かない。そこで、不思議が見れる”ラビット・ホール”に行こうと誘うことにした。

その当時には、息子はすでに『不思議の国のアリス』を知っていた。残念ながら書物ではなく、2010年のティム・バードン監督の映画『アリス・イン・ワンダーランド』からだ。映画のストーリーの詳細はともかく、マッド・ハッタ―がジョニー・デップだったことも、息子の関心を引いた。『チャーリーとチョコレート工場』(2000年/同上ティム・バードン監督作品)の映画を観て、すでにジョニー・デップが大好きだった息子は、わたしのネーミングに喰いついた。後は、自然散策をいかに、面白く盛り上げるかだ。どんな話をしたら、息子は喜ぶだろう。お化け話はし過ぎると怖がるし、植物図鑑を手にして歩き出したら、冒険は途端に色あせてしまう。

それが杞憂に終わったのは、これまでの面白さがしが役に立ってくれたためだった。つまり、一緒に歩くだけで、息子は自分から面白いものを見つけてくれたのだ。小川や小さな滝、ヘンテコな形の石や岩、おかしな様子の木など、小さな林の中にも探せばいろいろな不思議がある。辛うじて人が通ったことが分かるような背の低い樺の間をかき分けて進み、ふかふかの苔の絨毯の上を歩くのが、息子のお気に入りだ。体全体を使って登らないといけないような岩があると、さらに良い。高くて展望がよい場所にたどり着くためには、嬉々として多少の困難も厭わない。ただし、歩いて疲れすぎない程度の時間に留めておくのは肝心だ。楽しみは使い果たさずに、次回までも取っておかなくてはならない。

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さて、そんなラビット・ホールは、今では写真を撮り始めたわたしの面白さがしの場所になった。今日は何を見つけることができるだろうか、とワクワクしながら足を向ける。レイキャヴィークを離れれば、広大な自然はどこにでもある。それでもこんなふうに、空いた時間にふらりと寄れる手軽さは、仕事と生活の雑務に追われる身にはありがたい。日本の季節の推移の美しさには叶わずとも、それでもそのささやかな彩りを楽しみ、心を洗うことはできる。

下の息子は16歳になった今でも、気が向けば一緒に来てくれるが、洗礼を受けなかった上の息子は、生返事をするだけで同行することはない。自分で本を読んでいたことで、無理に誘わず好きにさせていた結果がこの通りである。こんなときに、 子育てのさじ加減とはつくづく難しいものだと思う。良かれと思ってしたことが仇になることもあるのだ。まあ、この点に関しては、同行してくれない息子を淋しく思う親心という、些細な問題にすぎないのだが。


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