アイスランドから見る風景:vol.12 2022年 新年の抱負
遅ればせながら、謹賀新年、明けましておめでとうございます。昨年から定期的に書き始めたこのコラム、12回目で2022年を迎えました。アイスランドで生活をしていながらも、こうやって書いたものが日本にいるみなさんの目に留まるのは嬉しいものです。今年も2週に一度のペースを死守(!)しながら、興味深い題材を提供していきたいと思います。本年度も、どうぞよろしくお願いします。
****閑話休題。あっという間に、1月も中旬になろうとしている。12月のクリスマス時には、オミクロン蔓延寸前のヨーロッパから、日本人のご家族数組がアイスランドに来てくださった。何とか無事にグループツアーを終了したのが12月28日。その後、恒例アイスランド年越しイベントにきりきり舞いさせられて、ようやくこの2,3日落ち着いたところだ。
会社を立ち上げた2001年以来、アイスランドに来てくださるお客さまたちには、極力現地でお会いしている。そもそも日本語グループツアーの場合は、わたしが出ることが多いのだが、日本語ツアーに参加せず、英語のツアーでアイスランドをまわるお客さまにも、まずは現地でお会いして日程の説明をさせていただく。つまり、わたしは基本的に弊社のお客さま全員と顔を合わせていることになる。
わたしにとっては、これはとても大切な過程(プロセス)だ。拝顔することで、”お客さま”が”人”に変わる。これまでメールや電話だけやり取りしていた相手が、顔を見ることで実在する人として認識される。楽しく、安心してアイスランドを旅してもらいたい、道中トラブルなく、よい思い出を作って帰国してもらいたい。そんな気持ちで受け入れをするので、感じる責任も正直生半可なものではない。
それが今回のコロナ禍で、これまで以上に現地でのお客さまとのコンタクトが重要になった。今までは不必要だった、入国時や帰国時の手続きばかりではない。これまで種類の多かったアイスランド国内のツアーも、主催会社自体が存続していれば御の字、多くの会社が事業の縮小をしており、催行されるかどうかも、そのときの状況によって大きく左右する。わたしにとって頭が痛いのは、長い間勤めていた取引先のスタッフが解雇されたり、離職したりして、これまでのよう阿吽の呼吸で手早く業務をこなせないことだ。新しく仕事を始めた人たちは、慣れるのに時間がかかるのは当たり前だが、そうかと言ってアイスランドの会社が彼らを十分教育しているかというと、時間と予算の足りないこのご時世だ、頭をかしげざるをえない。
そんな中での、ツアーである。9月ごろから少しずつ、欧州とアメリカ在住の日本の方たちがアイスランドを訪れるようになった。弊社を使ってくださったお客さまたちは、ツアーが終わる頃には、良い知り合いになっている。旅する人も、受け入れる側も、ツアーが終了したときの達成感はなかなかのものだ。無事に帰国しましたという報告をいただくと、ほっとして、やっと肩の荷を下ろすことができる。いかに自分が神経を使って、疲労困憊していたか分かるのは、そんなときだ。
その後、お客さまのほとんどから、旅行の感想を記したメールをいただく。そのメールの数々が、わたしの仕事への原動力になる。今まで全く異なる人生を歩んできた者同士が、アイスランドという場所を通じて、知り合い、時間を共有する。それが例え、袖がそっと触れ合うような短い時間であったとしても、お互いの記憶の中に残るのだ。結局、旅とは人と出会うことなのだとつくづく思う。
2022年、わたしは何人のひとたちの人生と交差できるだろうか。エピデミック蔓延で予断を許さない中にしろ、今後の進展をとても楽しみにしている。
****再び閑話休題。本年度のコラムで扱いたい題材について、頭の中をちょっと整理してみたい。
現在、念頭にあるのは、SFに絡めてのコラム、ドイツとドイツ作家の作品を絡めてのコラム、それと純粋な書評のコラムだ。ヨーロッパでよい展覧会があって行くことができれば、ぜひそれについても書いてみたい。これだけでも、4-5回分のネタはある。ただ、上記の内容は、アイスランドに多少触れることがあっても、純粋にアイスランドを扱った内容ではない。
昨年は、異なる角度からアイスランド社会に関する考察をしてみた。扱ったテーマも敢えてばらしてみた。アクセスの回数を見て気が付いたのは、食べ物の話題は人気があるんだな、ということだ。まあ、アイスランドの食べ物を紹介するのは悪くはないが、そこに何か新しい考察がない限り、個人的にはTwitterやInstagramで写真を上げるだけで十分のような気がする。
わたし個人は、このコラムの目的を思考の”喚起”と考えている。アイスランドにいると、こんな社会事象がこんな風に見える。それを皆さんはどう思いますか、という語りかけだ。あっ、こんな考え方があるのだ、こんなものの見方があるのだ、という気づきを感じてもらえれば、それでコラムの目的は達成される。気づきとは、雑草の種のようなものだと思って欲しい。風、鳥、昆虫などの介入によって、種は違う場所に運ばれていく。その種が新しい土壌に根付くとは限らないが、その反面、その後の環境次第で芽を吹く可能性も否めない。
そこで、今年のアイスランドに関するコラムの主題は、”人権”をメインにしたいと思う。以前、日本からの女性弁護士3名のコーディネイト・通訳をした経験から、人権問題が大変興味深い分野であることを教えていただいた。2017年アメリカから始まった#MeToo ムーブメントは、わたしが3人の弁護士さんたちとお会いした時には、すでにアイスランドを含めた世界に広がりを見せていた。人権を女性に対する性暴力だけに限定せず、子供、LGBTも含めて関係機関を視察した彼女たちのアプローチは、この分野に素人のわたしにとって非常に勉強になった。今でも、彼女たちとの出会いには感謝をしている。
でもそれなら、どうして今になってその問題を扱うのか、と思われるかもしれない。今頃、もしくは今さらになったのは、最近起こった2つの出来事に起因する。
一つ目はこうだ。2021年12月29日に放映されたポットキャストでのインタビュー番組にて、アイスランド人の24歳の女性が自分の受けた性暴力を公の場で告白した。関係者は5名の男性たち。彼らはメディア、エンターティメント、フィットネス、経済界で名を馳せた"名士"たちで、アイスランドの国民であれば大半が知っている面々だ。この告発後、今年1月に入り、彼らは次々と辞職、または罷免・停職させられている。アイスランドに於いての、#MeTooムーブメントのひとつの頂点だ。一般市民、特に女性の関心は当たり前だが、政治家、専門家もメディアのインタビューを受け、アイスランド社会全体が(性)暴力問題をこれ以上無視できない風潮が高まっている。
下記のリンクはアイスランドのメディアのもので、アイスランド語ではあるが、参考までにリンクを付けておく。
もう一つは、最近の日経新聞のアイスランドに関する記事に、少しだけ違和感を感じたことが原因だ。アイスランドはジェンダーギャップが少なく、女性の労働市場参加の割合が高い。それだけでも、メディアの関心を引き付けるには十分であるところを、さらに男女間の賃金差を解消するために、能力ではなく、性別による給与差を禁止する法律を2018年に制定・導入した。それは確かに2代目女性首相 カトリン・ヤコブスドッティル女史の政権のお手柄だ。
リーマンショックに端を発した2008年10月のアイスランド金融崩壊は、金融立国を目指した男性中心の経営理念が大きな原因とされている。利益追求を優先したことで、企業は法律を拡大もしくは恣意的に解釈し、順守をおろそかにする部分があった。しかし、それは資本主義国家であれば、程度の差こそあれ、同じように起こった出来事だった。それが国家破綻後、男女の格差の解消と言う意味で、アイスランドは他の国よりも一歩抜きんでるようになった。それはどうしてか?
その理由は意外に明白だ。実のところ、2009年以前のアイスランドでは、男女平等の理念がすでに国民の中で浸透しており、初の女性首相ヨハンナ・シグルザールドッティル氏の誕生は、時間とタイミングの問題に過ぎなかったのだ。よって、方針を大きく転換し、国の舵取りを数字に出る改革に結びつけることは、実際問題としてそれほど難しくはなかったと言える。国も、民間企業も、国民も、法律を施行・遵守する下地はすでに出来ていた。わたしは、彼女が初の女性首相であることよりも、初のLGBT首相であることを強調したい。そこまで、アイスランド人の人権感覚は先を行っていた。
例えばエジソンは電力の事業化に大きな功績を残したが、そこに至るまでにその下地を作った無名の研究者や発明家が数多くいたことは周知の事実だ。アイスランドの女性同権運動もその点同じで、1970年代から女性たちが社会の中の性差別に反対する声を上げ、共感者を募り、市民運動へと繋げていった。お手本は、歴史的に繋がりの深いデンマークだ。赤い靴下運動から始まった女性解放運動は、1975年の女性ストライキで大きな山場を迎える。インターネットの時代ではなかったので、文字通り駆けずり回って市民運動への参加を国民に呼び掛けた。現代よりも労が多く、時間もかかる方法だったに違いない。ただ、その女性解放運動の始まりが、その後のアイスランドの国の在り方を変えた。
カトリン・ヤコブスドッティル氏が現行の女性首相として、今日その恩恵に浴しているが、本来の賞賛は、ムーブメントに参加したアイスランドの市民ひとりひとりに与えられるべきものである。女性先輩たちの努力と苦労があってこその名誉であることを、彼女もきっと十分承知していると思う。
わたしはそんなふうにニュースに上がって来る事柄の裏を探ってみたい。言い換えれば、事柄の肉付けを違った側面からしてみたいと思うのだ。こう書くと、今年のわたしのコラムの目標は、なかなか野心的だ。これまでの市民運動を紹介しながらも、退屈な歴史の授業にならないように、タイムリーな時事から人権問題をあぶりだしてみたい。どこまでできるか分からないが、これもまた自分に課したチャレンジだ。組み合うには不足のない相手である。
多様を認め、他に寛容な社会。性別、民族、宗教に関わらず、お互いを貴びながら、ひとりひとりが自由に生きることのできる世界。アイスランドから見る蜃気楼かもしれないが、生きやすい社会を作り上げることのできるアイディアや知恵ーそんなものをこれから手探りで見つけていきたいと思う。