Notes of a Dirty Old Man For Introduction

よく考えてみると、上京しての生活は中学入学と共に始まり、
十二三からのこと。そう六十年も前のことに成りにけり。
そして半年ほどの後に私立の学校に転校した。
誰かが教えてくれた越境入学をして来る方のいるほどの公立学校と。
そう言えばクラスにもそんな子がいたようでした。

また言いたくなる中原中也じゃあるまいし。普通に生きたかったな。
でも思い浮かぶこと。
何かの折に父親が言っていた、転勤出来ず田舎に居たらお前は、
山田に行かせようと思っていた、と。
やはり今は中学があるかは知りませんが、スポーツで有名だ。
青森大学も系列校だったはず。

蕨の私は行かなかった高校もスポーツで有名だったな。
現在のことは知らない。
田舎の小学校の頃を思い返すと地域に根差すって心地良かった、
と思って仕舞う。
四年生の頃に転校をしてますがね。また直ぐに友達が出来てた。

短い期間の公立中学の生活も。
私立に転校してからはどうか知らないけれど、私はあけっぴろげで、
はっきり言えば田舎もんだったでしょうね。
周りのひとがどんなに見てくれていたかは聞いて無いけれど。
転校したのに引っ越しはしてないんだし、何と見られていたやら。

私自身は友達に逢いたいはあるけれど、見られたくない気持ちも。
精神の不安定、ねじくれ始めかね。

そう、また思い出したけれど、
何時だったか書きものの道へ進みたいと父親に打ち明けたんだけれど、
中学の二年生の終わり頃でしょう、三年生から公立の中学に戻りたいと、
やはり打ち明けたはず。

二つながらに有耶無耶の話しになって仕舞ったんだし、
打ち明ければ、それで満足して仕舞うような質の子供。
何が何でも何て気持ちは無いしそれなりに生きて行く子供だった、
のでしょう。
だから転居が多かったのでしょうし、転職も。
書きものに関係しないのなら、どうせ気に染まない仕事ばかりだったはず。

2010年から12年に掛けての或るブログサイトでの書き継ぎが出来たこと、
は、精神の不安定の中でのことにしてもきつかったけれど、
楽しさは如何ばかりだったかと改めて思い返す。

そしてフィリピンから畏いなるものの呟きを聞いて後に、
帰った2020年の七月からのこと。
少し準備をして始めた翌三月よりの入力に続けての見直して、
さる出版社への応募があり、無茶苦茶があったにしても、
アマゾンキンドル出版へつながったこと。

以前の書きものも合わせ三冊のイーブックを上梓し、
書き下ろし第二作へ続けるべく、体調の絶不調をものともせず頑張ってる。
頑張れる。私のフェバリットだからこそ。

そうそう、
父親は中学の卒業前に、ヘッドハンティングされて役所を辞めていた。
まっ、仕事は出来る人とは聞いておりましたが、
自分の決めた道を真っ直ぐに進み行くような人間で、私を手伝わせるのも、
織り込み済みだったのでしょう。

あなたの子供に生まれたのがいい面の皮だった。
弟が、性格があなたにそっくりで、適役だったのでしょうが、
私との五歳の歳の差が徒。
少し遅れて一緒に仕事をとなりましたが、
小さい頃を一緒に育たなかった兄弟だった故でしょうし、
父と合わない私が父と同じ質の弟とは合うはずも無し。
ご存じのように工場を無くして終わった話し。
~~続く


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