Notes of a Dirty Old Man
~~~さらに続きます。
離婚の二文字が思念に上らないでも無かったけれど、
色々有りましたし、
自分が育ての親に感謝の気持ちが有ったにしても、
生みの親が近くに居てないのでは子供を育てることも難しく、
子供に嫌な思いをさせるも望まなかった。
自分のことを考えれば離婚はしたく無かったのだし。
自分が我慢をすれば、が胸の内。
房事も間遠くなるのが定め、色々言われても知らんぷり。
本人は自分の発言の意味を理解していたのやら、図りかねる。
避妊具はそのままで、
同じ時期にしている女友達のご主人は整骨院をなさってて柔道も、
お元気なようで妊娠をなさったとか、
私が数も少ないし子供も出来ないと貶めたいのか口走ってた。
たしかに小学校の頃は野球少年でしたが、今とは違い遊びの内。
五年の頃に腸捻転で入院した後は無理なことはするなと父から言われ、
中学に上がっても部活などとはご縁が無かった。
今で言えば帰宅部か。
その分勉強もしないけれど本ばかり読んでいた。
頭でっかちの見本です。
どちらにしても父親と合わないから子供は作りたくないって、
どんな思考回路なんだと、今も頭をひねるし上が男二人で、
その後の女の子なら、何でも自分の思いのままなのかね。
自分の母親との話しってどんなだったのかなと、今も思うのだけれど。
別段に他に女との器量もあるじゃ無く、しらっぱちけた日々が、
過ぎて行くばかりでした。
子供には眼を掛けておりましたし、試験に受かりましたから、
弘前の大学の付属の小学校中学校と通わせておりました。
小学の何年生からでしょうか、ラグビースクールにも連れてった。
北秋の大館かな、弘前、青森そして十和田とあったようで、
大会の時はあっちに行ったりこっちに来たりできつかったけれど、
楽しみでもあった。日曜日はほとんどそれでつぶれてたよう。
仕事でのこと、家庭でのこと、父親とのこと、
生活での鬱屈の良い気晴らしでした。
いつ頃のことでしょうか、
男の方から誘うもの、とか言っていたようです。知らんぷり。
そして、
誰かからの入知恵でしょうか、
次の子のことを言い出して、白けてはおりますが欲しくない訳じゃ無く、
避妊具を取ってとか言うのを聞いておりましたっけ。
それで思念に刻んだこと。
女が心を開かなければ子供は出来ないんだな。そうなんだ。
体力は無いけれど、行為をすれば子供は出来る男。それで良い。
誕生年を忘れてるので多分の話しですが八年とか九年の間が空いた。
上が男の子で、下が女の子だ。
上が二十六歳の子、下が三十四歳か五歳の子。
可愛いかった。
思い出せば思い沈む。
~~~続く。