Notes of a Dirty Old Man

昨日はお休み。
初めてのことですがスマホでのゲーム、
やはり初めての極端に体調が悪くなり物事を考えられなくなっての恐怖。
ボケるのでは、が始め。
独りもん、誰も面倒をみてくれる者は無く、
頭を動かさないと、やってみよう、と成りにけり。

簡単なものですが麻雀の牌を揃えて行く、慣れればイージーだ。
根気があれば良い。
まっ、ええ加減な私に欠けているものです。
も一つは同じ色のドットを繋げるもの。案外難しいし、
中途にして時間をおけば出来たりする。
これも少しずつ慣れて来た。
スゴイとかのコメントを貰えば懲りずに続ける。

興味深く面白いものは根を詰める質。
ゲームで疲れて書きものを休んでどうするの、と声が聞こえて来そう。
少し自重をしての今日がある。

さて、続けます。
昭和に直せば25年の生まれ。二十五歳の頃に田舎に帰り父と創めたこと。
昭和50年の頃か、小さな町には家内工業的なものは有ったにしても、
有限会社にしても会社を謳ってのものは人口四万程の小さな町でしたが、
先駆け的な存在だった。加えて誘致企業で恩典もあった。

お若い方は集団就職なんて言葉をご存じでしょうか。
そう、田舎から東京へと人が動いた。それが私の父親の職業安定行政、
仕事だった。縫製業で言えば東京の親方連中と中卒の子供たちの繋ぎ役。

50年ともなれば段々と人も集まらなくなり親方連中と語らって、
田舎にセンターを作り、
先ずそこに他人を集め東京に派遣するが最初のプランだったようです。
私は知らなかったこと。
持ち金は無い父親、或る親方から嫌味を言われ知ったこと。
そんな成り行きで出来た会社だから二十年程で人手に譲る羽目になるのも、因果応報。

市長さんは評判が欲しいのだし、
直に役所からいよいよの助成金んが出るようになり、
古くからある会社は割を食う。
縫製業、安直にできる会社組織、人口四万程の街に新規の工場が余るほど。

人手不足になるし、賃金高騰、資金的に余裕があれば後進国へ。
東京から田舎へ、そして賃金の安く済む韓国タイへと動き出した。
二十年程の内に一つの業界の隆盛と没落全てを見せて貰った。

殿様商売も短い間に終わりけり。生意気な質だけが残った。
父親とのこと。
二十年程で立ち行かなくなる、
何でこんなことに引き込んだが胸の内だった。
それだけで十分なのに家庭のことも。具合が悪くなっても当たり前だ。

全てを無くす二十年程の少し前のこと。
そう、親からの話しで、
ある会社に工場を譲り、お前は工場長で残る何て話しがあった。
家庭が健全なら、子供たちの為にもうひと頑張りなんて思っただろうが、
そんな気にはなれなかった。

ちゃんとした選択をさせない条件がそろい過ぎだ。
加えての飲酒の癖、慢性的な精神の不安定。
上の子は中学を出ただけで家を出て行くことになっていたし、
下の子を捨てるようになったのは悔いても悔いきれないことだった。

そんなこんなの内に父親がらみでこんなことが出来した。
人を馬鹿にするのもええ加減にせえよ、何て言いたくなる話しだった。
~~続きます。

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