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【13】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、石川先生のところで】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

同時期に僕は、母に連れられてある精神科医のもとを訪ねていた。

石川憲彦先生。

小児科医で、当時から障害児医療の傍ら、不登校についても当時から臨床でかかわられており、不登校・登校拒否に関する著作もある。
母が、シューレから聞いたのか、おはようジャーナルなのかは不明だが、どこかから調べて、この先生のところに僕を連れてきたのだった。
この当時はまだ学校恐怖症という名称も一般的に用いられていたため、アドバイスができるのは精神科医、もしくは子供の病気として小児科医が対応することが多かった。

連れていかれたところは、たぶん大学病院だったか、教授室だったかは覚えていない。ただ、経歴と時代から、行ったところは東京大学だったようだ。大学に入ってから、東京大学出身の友人もできたり、東大内を歩いたことはあるが、どうやらその時が初めての東大ということだったようだ。石川先生は、僕のことについていろいろ聞いてきて、学校が嫌で行けないこと、その理由は小学校の担任の授業が嫌であることを正直に言ったようだ。

このnoteを書くまで石川先生に会ったことを忘れていたくらいで、その時に自分が何を言ったかはほぼ覚えていないのだが、書いているうちに話をしたことを思い出し、その人が石川先生であることを思いだした。
書いていると、いろいろなことを思い出すものだ。

そして、ひとしきり話した後に、石川先生が言った言葉は、このようなものだったと記憶している。

「お母さん、この子はちゃんとしていますよ」

特に病気ではない、ということだ。障害児教育などを経験しており、さまざまな子供たちを見てきた先生がいうのだから、「学校に行かない」だけのことで、この子自身に特に問題はない、と答えてくれたのだ。

すぐには効果はなかったが、これは僕にとって、不安を取り除かせるのに十分な言葉だった。

そして、母にとってはもっとこの言葉は大きな支えになったらしい。
「おかしくないんだ」と。
その後、中学卒業までの間、父や祖父から僕の登校拒否について通わせるように言われていたようだが、本人の意思であるとして強制をするようなことを言わないでほしいと言っていたらしい。また、母も強制はしなかった。

それによって、息子が学校に行かないことについて、それほど気にしなくなっていった。その後、担任の対応に触れることで、うちの子はこの教師に無理して教わる必要はないと判断したとのちに聞いた。母は学校に行かない僕のことについて担任と面談を何回かしたそうなのだが、回を重ねるにつれ、この人のやり方は何かおかしいと感じ始めてきており、2学期を過ぎたころには、担任が僕に面会を求める時も面会を断るようになった。
母がいないときにもやってくるようになっていて、それをやめてもらうようにもいったようだ。だがそれによって、担任である彼女にとても恐怖を感じるある出来事が起きるのだが、それはもう少し先の話になる。

こうして僕は、「学校に行かない選択肢があってもいいのかもしれない」と感じ始めた母の考えもあり、6月下旬以降、ほぼ学校に行かなくなり、そのまま、夏休みに入っていった。

そして、2学期はまた、別の衝撃が待っていたのだった。


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