見出し画像

【11】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、テレビゲーム6を指導できない教育相談所】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

クラスメイト集結の事件から、ひと月ほど経ったからだろうか。

毎日朝が来るのがいやだったことくらいしか覚えていない。

普段夏休みや風邪で休んだ時しか見られない、笑っていいともを見ることに不思議な気持ちがしたり、今みんなは授業受けてるんだなあ、とか思っていたりしたが、徐々に暇だからマンガを読んでみたりし始めたころだろうか。

それまでの友達とも、ときどき遊んでいたような気がする。強烈な記憶以外、なかなか普段のことは忘れてしまう。そういう意味で、学校に行かないことが普段のことに少しずつなっていったのかもしれない。休むのも悪いことをしているとまだ思っていたからかもしれない。

とはいえ、この後どうするかを息子は考えられていないようだし、母も困って次のステップを踏まなければいけないと考えていたようだ。

そういうことで、1学期の間、通学していたらいくことのない場所に2か所ほど連れていかれた。その1つ目のことを書いていこうと思う。

ある日、とあるところに連れていかれた。学校に行かないのだから、どこかに行ったほうがまだ気が楽だと思っていたので、ついていくことにした。

連れていたところは、市の教育相談所だった。

担当者(教員経験者だったらしい)から、行きたくない理由とかを聞かれたりした後は、母親といろいろ話をしていた。
そのあとはそこにあった学習漫画とかを読んでいたと記憶している。

そこには自転車で行くような距離で、学区外の場所にあったが、主に母親が相談することがメインで、僕はそれについて行って、そこにある本を読んだり学習漫画を読んだりするような時間だった。うちにはない本だったから本を読むのは楽しかった。

あと、ゲーム機があった。
1986年なので、ファミコン…とおもったが、何か違う。その前に幼稚園の時に友達が持ってたカセットビジョンでもなかった。
大人になって知ったが、任天堂がファミコン発表前に出していたテレビゲーム6だったようだ。ほぼPON(エアーホッケーのようなバーでボールに見立てたドットをはじいて点を取るゲーム)みたいなゲームで、やりたかったのだが、接続の仕方がわからないらしく、結局できなかった。それだけが心残りだった。

結局、心残りはあのゲームやりたかったなー、だけで、母も次の相談先を見つけたらしく、そこに行くことはなくなっていった。

そういえば、家に戻ったら、結局自宅でファミコンをしていた。ほぼ間違いなくテレビゲーム6よりファミコンのほうが面白いのだが、やったことのないゲームをやりたい気持ちだけが残って、ゲームをやりたくなっていた。

ここでの出会いはゲームだけだったが、もう一つの場所は、その後の不登校生活の分岐点になっていたと思う。そして、その場所では主に母が子供が学校に行くことについての考え方に影響を受ける場所でもあった。つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?